異なる物理法則の世界

 人工知能が機能していない可能性。

 普通であればちょっと思いつかないような事態だが、しかし、今回に限ってはそう仮定したほうが、パズルのピースがハマっていくかのように理解が容易になる。


 春からのプログラミングは淡々と、ただ淡々と送られてくる。いまは、Necoに通報の言語とプロセス分岐の合意を得る部分をつくり終えたところだ。またすこし趣が変わってくる――言語の変換方法について記述している、相変わらず、……妙なコードを使っている。


「しっかしなあ……Necoが機能しないなんざ、ありえるのか」

「……どうなんでしょう。みなさん」


 寿仁亜が視線を向けたのは、ソファに座る他分野の専門家たちだった――十人近くいたはずだが、いまは可那利亜と寧寧々も含め五人になっている。いつからそうしていたか知らないが、気がつけば自分たちの談笑をやめて銀次郎たちの会話に意識を向けていたらしい。にっこりと、可那利亜がなぜか得意そうに大きな笑顔を向けてきた。


「あー、えっと……」


 若く眼鏡をかけた男性が、うかがうように可那利亜を見る。どうぞ? と言わんばかりに可那利亜が手のひらを上にして導くように示すと、彼は一度うなずき、話し始めた。


「ありえますね、それは。一定の条件を満たせば、ですが」

「だれだよ、てめえはよ」

「あっ、はい。申し遅れました」


 彼は立ち上がり、深々と一礼する。武道を思わせる動きだった。


「自分、山月やまつきおさむと申します。空間物理を専攻しています」

「……そうかよ」


 銀次郎は頭の後ろに片手を当てた。他の分野の専門家と話すのは、どうにも性に合わない。寧寧々もそれは同じなのか、やはり腕を組んだままどこか虚空の一点を睨んでいる。


 寿仁亜は微笑んだまま彼を見ているだけだった。礼儀正しい寿仁亜が挨拶をしないところを見ると、おそらく既に話をしているのだろう。自己紹介も済ませたに違いない。


「オサムくんは、まだ若いのにとっても優秀なのよ。みなと大学で物理学の選抜メンバーに選ばれて、学生の身でありながら空間物理の代表として研究を頑張ってるんだから」

「いえいえ、そんな、カナさん……」


 理は照れていた。

 ……いったいこいつらどこで出会ったんだ、どういう関係なんだと銀次郎は一瞬思って――自分に関係ないことだからすぐに、忘れた。


 港大学といえば、国立学府に準ずるとも言われる優秀な公立大学だ。理系に特化していて、とくに物理学や化学を専攻したい学生は国立学府と同時に目指す大学らしい。銀次郎にはあまり関係のない話なので、聞きかじったことしかなかったが。


「冴木先生の人工知能の専門性、お話、ご明察、勉強させていただくばっかりです。分野は違えど超優秀者の先生というのはやはり違うのだと、改めて学ぶことができました」

「そういう挨拶はやめろ、痒くなる」

「そうですか、申し訳ありません」


 眼鏡の奥の目を申し訳なさそうな形に曲げて、そんなに申し訳なさそうでもなく、理は形通りに軽く謝った。


 寧寧々が少し顔をしかめて、口を開く。


「しかし、大丈夫なのか? ほら。物理学のチームもいま、解決にあたっているじゃないか。その、そちらに戻らなくて……」


 優秀者である、あるいは優秀者になりたいのであれば、人工知能という別の分野の対策本部などに来ないで自身の専門である物理学の対策チームに参加したほうがいいんじゃないのか、と言いたいのだろう。寧寧々や可那利亜のように、そもそもアカデミック社会で異端であるならばまだしも。

 非常時に専門性を生かすのは社会における義務だし、大きな事件を解決できれば社会評価も上がって優秀者になれる。


 しかし理は、苦笑しながらかぶりを振った。


「いいんです。カナさんに呼ばれるまでは、自分もあっちにいたんですが。どうもこの事件、物理学の事件じゃないなと。お偉い先生方はそうは考えていないようですが、熟練の先生方には若造とは違い大きな責任があると自分も承知してますので」


 要は、ただ社会評価が高いだけの年配の教授陣は気づいていないようだが、自分は気づいた、と言いたいのだろう。


「そうか。なら、平気だな」


 寧寧々もあっさりと引き下がった。

 今度は、寿仁亜が口を開く。


「山月くん。自己紹介も無事に終わったところで話を戻すけれど、Necoが機能しないという世界はありえるんだね? ぜひ、山月くんの素晴らしい空間物理の専門性の力を借りたいんだが……」


 やはり既に話をして、知り合いだったようだ。

 うす、と理は武闘家のようにうなずく。


「そんな価値ある話はできないです。当たり前の話しかできないですけど」

「山月くんにとっての当たり前の話が、僕たち物理学の専門家ではない者たちからするとすごく貴重だったりするんだ」

「そうですか。それでは、失礼して」


 理は、話し出した。


「人工知能が機能しない世界というのは、自分が思うに、ありえます。当初は、物理学のチームは公園ごと別空間に世界を転移させたのだろうと仮説を立てていました。その場合は、Necoが機能しないことはありえないんですね」

「そうなのか」


 寿仁亜が相槌を打つ。感心したかのような、的確な相槌。


「空間ごと転移しているということは、中の空間がそのまま――カットアンドペーストされてる、ってことになります。Necoのことは詳しく知りませんが空間内部に配置されているモノのひとつということですよね、花や酸素や電波のごとく。だとすれば、カットアンドペーストをしたからといって、花や空気や電波がなくならないのと同じで、Necoもなくなりません」

「ふむ。なるほどね。外部への接続はできなくなるかもしれないけど、インフラとしては機能し続けるってことかな――」

「そこは自分は専門外なんでわかんないです」

「ああそうだよね、ごめんね、どうぞ続けて山月くん」


 寿仁亜の様子にはまったく嫌みがない。初対面であろう理も、話しやすいようだった。


「空間転移は充分に実用化されていますし、空間転移の研究も進んでます。その際、物理法則が変わってしまわないかどうかの検討も充分になされています。結論としては、変わらないと」


 ジェシカも実際、空間転移技術を応用して出来た移動装置で、旧アメリカエリアから旧日本エリアまで短い時間でやってきた。まだまだ高額な技術だが――気軽に使える運賃で社会に浸透するまで、そう何年もかからないだろう。


「なるほどね……そういう結果が既に出ているんだ」

「ただ、これは転移先の空間が我々の世界と同様の物理法則であるならばという条件つきです。転移先の空間が我々の世界と異なる物理法則で動いている世界である、と条件をつけてみると、当然ながら結論は変わります」

「異なる物理法則の世界」

「つまり、虚無とか」


 理は淡々と話していたが、そこには確かに専門の分野を極めつつある若者特有の静かな興奮があった。


「巨大な、どこまでもつづく虚無の世界に、公園は呑み込まれてるのかもしれません――そんな途方もなく広い虚無の世界が実際に存在したら、ですが」

「なるほどね……」


 寿仁亜は、言葉を選んでいるようだった。

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