針の穴ほど

 たっぷり一時間以上が経った。

 延々と春の解答用紙と睨めっこしていた寿仁亜が、ふいにその緊張を解いたかのように――肩を回し、腕を回した。

 そして銀次郎のほうを振り返って、言う。


『チェック、終わりました。お待たせしてしまいまして』

『おう、終わったか』


 寿仁亜は今度は、素子のほうを振り向く。


『申し訳ありませんが、素子さん。こちらの解答用紙をすべてコピーしていただけるでしょうか』

『お安い御用ですー』


 素子は机の上に並べられた解答用紙にコピースキャナーをかざす。あっというまに部屋の隅のコピーマシンからコピーが吐き出されてきた。

 素子はコピーマシンの前に向かい、すべてのコピーを素早く確認、トントンときれいにまとめると、寿仁亜のもとに持ってくる。寿仁亜は紙の束をお礼の言葉とともに受け取った。素子は微笑むと、ソファの後方に控えめに立つ。


 こうなれば寿仁亜がなにをするかはわかった。銀次郎は、寿仁亜の隣に座る。


『念には念をということで、この解答は学生の暗記であるという前提概念をいったん捨てて、これ自体がNecoプログラムとして間違いがひとつもないかという観点でチェックさせていただきました――もちろん、先生が選ばれた至高のNecoプログラムです、正しく書けていれば間違いなどひとつもあるはずないのですが。……結論から申し上げると、間違いは、ひとつもありません』


 寿仁亜はアナログのマーカーペンを取り出し、最初のひと文から最後のひと文に至るまで、順番に解説していった。そのプログラムの意味を銀次郎がわからないはずがない。一見弟子が師匠にその道を説いている不遜な状況にも見えるが、そうではなく、人工知能プログラムのチェックというのはこうやって行うのであった。チェック役が意味を読み説いてひとつひとつ解説する。チェックを更にチェックする上の立場の者は、その解説が間違っていないか、使われているコードや関数などは適切か、徹底的に確認していく。


 寿仁亜の用いるカラフルなマーカーペン。黄色、緑、ピンク、さまざまな色が解答用紙のコピーの上を走り回る。それが寿仁亜の思考だった。ただプログラムを見つめているだけで、彼の頭のなかにはチェックがすべて出来上がるのだった。チェック、終わりましたという言葉はほんとうだ。終わったうえで、あとは――その中身を具現化しているだけ。

 銀次郎は、そのことをよく知っていた。


 最後のひと文まで行き着くまでに、二時間以上かかった。それでもふたりは集中を一切崩さない。素子が飲みものを持ってくることもなかった。このたぐいの仕事をしている人工知能プログラム専門家には、下手に干渉してはいけないと熟知しているのだ。



 最後のひと文。


『そういうわけです』


 寿仁亜は、言った。


『……そうか』


 銀次郎も、言った。



 来栖春という学生の書いた、Necoプログラミング入門の解答用紙。

 間違いは、なかった。ただのひとつも――。


 自分でチェックして、院生と助手にチェックさせて、更に自分でチェックして、いまでは大きな大学でみずからもNeco専門家としてNecoを研究するチェックに特化した一番弟子にチェックさせて、そしてその最終チェックを自分が行って、その結論だ。

 来栖春のNecoプログラミング入門の単位取得は、これで確定、合格だ。合格者ならばたくさん出してきた。けれど。……最終試験を突破したかたちで合格した学生は、それなりに長い銀次郎の経験のなかでも、初めてだった。


 銀次郎も寿仁亜も、しばらく黙っていた。

 ……たぶんふたりとも、なにを言っていいのか、わかりかねていた――思うことならばたくさんあるのに。



『おい、素子。コーヒーくれ。それもとびっきり濃いやつを。依城のも濃い目にしてくれ』

『かしこまりましたー』


 素子がコーヒーを淹れはじめると、香ばしい匂いが部屋じゅうに満ちる。

 明け方ともいえないこの時間は、いちばん夜が深い。真夏の夜。蝉のうるさい昼間と違って、静まり返っている。蝉の声さえも一種の学生サービスだ。天然の生物である蝉と人工の機械蝉を組み合わせている。環境をそれらしく整える。学生とはいえ社会に生きる人間に対しても、当然のサービスだ。

 だがいまは静かだ。ほんとうは新時代情報大学に――人間以外の生物なんて、ほとんどいないのではないかと思わせるほど。


 寿仁亜は膝の上で手を組んでいた。なにかを思案しているようだった。

 しかしふと銀次郎に向きなおると、いつもの穏やかな表情を見せる。


『……初めて、ですかね』

『ああ。初めてだ』


 言葉数が少なくとも、お互いになにを言っているかは深く伝わった。

 素子がコトンとふたりにコーヒーを差し出す。

 真夏でも夜はホットコーヒー。銀次郎の習慣が移ったのか、寿仁亜も夜はいつもホットコーヒーを飲んでいる。ふたりは並んでマグカップを口に運んだ。

 濃い目のコーヒーが、沁みた。


『たいしたものだと、思いますよ。Necoプログラムを暗記したということは、すくなくともこのNecoプログラムの範囲に限っては、これを解答した学生はコンピューターと同等の頭を持っているということですから』


 銀次郎は苦い顔をした。ごまかすために、更にコーヒーを飲む。

 気持ち悪くなりそうで、マグカップを置いた。ならうように、寿仁亜もマグカップを置く。


『でもよお、とても優秀には見えなかったんだよな。最後の最後まであの授業に残るくらいだ』

『……視野の問題ではないですかね』

『あんだ、それは』

『その学生、あ、先生、解答した学生は男性ですか女性ですか中性ですかそれ以外ですか』

『男性って登録されてたよ。それ以外で登録しねえってことは、男なんだろよ』

『ありがとうございます、いえ、性別なんて本質にはなんら関係ない話ですが、性別がわからないと、どうにも話題にするときに呼びづらいので。早く統一する呼称をつくればいいと思うのですが』

『旧時代の弊害、社会学者の怠慢なんじゃねえの』


 寿仁亜は控えめに、否定するでも肯定するでもなく笑った。


『では、その学生はひとまず、彼と呼びます。彼は、とにかくNecoプログラムを深く覚えることに集中した。だから他のことなど、まず見えてもいなかったのではないでしょうか』

『だとしたら視野が狭すぎるだろうよ。深く集中するのは勝手だが、非効率であることも不合理であることも気づかねえのは、針の穴くれえしか視野がねえってことだぞ』

『ですから、視野の問題なのかな、と。……視野が狭すぎるあまりに、深い集中ができているのか』


 寿仁亜はどこか歌うように、どこかを見上げて、少しばかり楽しそうに言う。


『それとも、深い集中のあまりに、人間としてまともなレベルの視野を放棄したのか……しかし後者だとすると、割合に厄介なお話ですね。彼にとっては』

『どういう意味だ』

『人間として、最低限必要な水平的視野ってあると思うんです。どんなに優秀な専門家だとしても。専門性を高める以外にも、たとえば、だれしも人間として生きていかねばいけない。人権を維持し、人権をより優れたものにするために。そのためには超優秀なかたであっても、たとえば日々の暮らし、寝たり起きたり歯を磨いたり食べたり、そういう無数の行為が必要となってきますよね』

『俺ぁ睡眠も不規則だがな』

『しかしそれは先生が不規則というパターンを選んでいる時点で、ひとつのパターンであり、やはり先生の目には見えている、ということだと思います。……あまりにも視野が狭いとそういう身のまわりのことまで気づかなくなってしまう。そして、針の穴ほどの光にすがって、歩いて、歩いて』


 すこん――と寿仁亜は声に出して言って、おどけるように、小さな子どもたちに紙しばいをして見せるかのように、両手の手のひらを下に向けて、なにかが落ちる動作をあらわすように下に動かした。


『ある日、落とし穴があっても気づけずに、落ちてしまう。せめて足元を見られるほどの最低限の視野があれば、避けられるのに』


 寿仁亜は相変わらず穏やかな横顔をしている。銀次郎と目が合うと、にこっと微笑む。……そうだなこいつはそういうやつだな、と銀次郎はあらためて思っていた。

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