お先です

 銀次郎はその日も、いつも通りの型にはまった、暗記しろ、以上、という説明を終え、ロストペーパーとNecoプログラムのサンプルの印刷されたレジュメを配布する。

 レジュメは前の席の生徒から配布していく。だから、本気でこんなことやるのか、というざわめきも、いつも前の席から後ろの席へ、さざ波のように起こっていく。

 金出佐見槻はそのさざ波のいちばん最後にいた。机の下に隠すようなかたちで、スマホ型デバイスを開いてメッセージアプリでだれかとやりとりをしていたらしい見槻は、銀次郎が冷たく見下ろして半ば叩きつけるようにレジュメを机の上に置くと、いまさらのようにスマホをサッとスマホをボトムスのポケットのなかにしまった。そしてそれを誤魔化すかのように、へへっ、へっ、と、媚びるような照れるような、卑屈なような、それでいて他人をちょっと馬鹿にしたような笑いを向けてきたが、銀次郎は完全に無視した。


 銀次郎は思った。どの年度にも、こういう学生はいる。なんのために大学に来ているのか、よくわからないようなタイプの学生だ。授業中はたいていスマホ型デバイスを開き、メッセージアプリで友人だか恋人だか知らないがどこかのだれかとの会話を楽しむか、ゲームアプリを消音あるいはイヤホンを堂々とつけて楽しむか、漫画アプリで好きな漫画を読んでいるか、まあだいたいはそのどれかだ。

 そういう学生のことを好ましいとは、銀次郎は思わない――だがたとえば他の教員の多くがそうするように、それで学生を指導したりとか、その年度の単位を認めないことにするとか、そういうこともしない。出席も受講態度も成績評価の基準にはいっさい入れていないから、その授業の成績基準さえ満たせば、そういう学生にも単位を与えている。

 それは、単に面倒だからだ。時間がもったいない。学生を指導するのも、単位を認めないのも。そういうことをする教員を、よくそんな暇があるなと銀次郎は少し軽蔑している。学生のために、そういうことはするのだ。学生を指導するのもひいてはその学生のため。単位を認めないのもひいてはその学生のためだし、必修科目であった場合はその学生は次の年度にもういちどその授業に来るわけだから、またしてもその学生の相手をしなければいけないということになる。だから、結果的には学生のために時間を割いていることになる。

 銀次郎は、自分にはそんな時間はないと思う――研究がしたい。

 しかし、新時代情報大学はかならずしも優秀者の見込みの高い学生だけが集まる大学ではない、むしろその逆で、優秀者の見込みが比較的低い学生でも受け入れているという観点から、学長は、できるだけ学生を熱心に指導するように、と教員たちに指示している。おそらくだから他の教員はそうやって結果的には学生のためになるような行動をとるのだ――学長の評価が上がれば、社会評価ポイントのアップにもつながる。

 銀次郎の場合は、そんなかたちで社会評価ポイントのアップを狙う必要もなかった。もともとが独自のものをもっており、超優秀者であるのだから、そんなことでちまちまと社会評価ポイントを獲得しなくてもよい。もちろん、超優秀者であってもその人物自身の美学やらポリシーやらに基づいて学生指導に熱心な者もいる――だが銀次郎はそうではないし、そうする義務も義理もメリットもないと判断しているという、ただそれだけのことだった。



 金出佐見槻がいちばん後ろの席だった。だから、彼にレジュメを配布し終わった銀次郎は、教壇に戻るべく大講堂の緩やかな傾斜を下りはじめた。

 そのときだった――下りはじめて、すぐのことだった。それこそ、金出佐見槻に背中を向けて少しした瞬間、いや、ほとんど一致していたのかもしれない。それだけ速く、予想外で、銀次郎でさえ彼のその行動に一瞬だけフリーズしていたのだ――金出佐見槻の、唐突な発言に。


『いや先生、これおかしいっすよ』


 銀次郎は、動きの硬いオールディなロボットのように、ぎこちなく振り返った。傾斜の関係でほんのわずか上の位置となったさっきの不真面目な学生――金出佐見槻が、偉そうに脚を組んで、右手の手のひらでスマホ型デバイスをもてあそびながら、左手ではしっかりと机に置かれたレジュメを押さえていた。まるで、確たる証拠を離さないとでも言わんばかりに。


 その顔は、怒っているようにも見え――チャラチャラとした外見と合わさると、まるで歴史上の帝王のような、独特の迫力があった。

 しかし銀次郎はその迫力がわかったうえで、臆せず対応する。


『おかしいとは、なんだ。おまえ。それに、失礼だろ、なんだ俺様の授業で脚なんか組みやがってよ』

『こんなおかしい授業をする先生のほうがおかしいんじゃないっすかね』


 大講堂は、氷のように静まりかえっていた。

 風の唸る音だけが、やたらに大きく響いている。


 銀次郎は金出佐見槻のもとに乱暴に歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。数人の学生が叫ぶ。しかし銀次郎は気にも留めない。ただ、目の前の、胸ぐらを掴み上げられてもその迫力をまったく失わないこの学生だけを、気にしていた。


『なにがおかしいってんだよ。ああ?』

『いいんすか。他の学生もいる前で。いいんすか、先生のおかしさ、俺が証明しちゃって』


 からかうように、嘲笑うように金出佐見槻は笑みを見せた。


『いいぜ。できるんならよお。――やってみろ』


 銀次郎はそう言って、胸ぐらから手を離した。金出佐見槻は一瞬だけ体勢を崩したが、すぐに体勢を戻し、すっくと立ってみせた。

 他の受講生たちはもはや銀次郎に対してというより金出佐見槻に対しておそれを見せて、彼の一挙一動を、水のなかに潜むようにして見ている。

 金出佐見槻はやはりニヤリとして、自信いっぱいに大講堂を見渡していた。

 依城寿仁亜以来の興奮を――銀次郎は、覚えていた。


 見槻は、語った。寿仁亜以来の滑らかさで、正確さで、銀次郎の意図を理解したうえで。

 しかし寿仁亜と違ったのは――寿仁亜があくまでも銀次郎を立てたうえで、かつ、他の受講生にも銀次郎の意図を理解してほしいというスタンスのもと話をしたことに対して、見槻は銀次郎に攻撃的であり、他の受講生に対しては理解できるやつだけすればいい、というスタンスであったことだった。


 身振り手振りも効果的に交える、その語りといったら――攻め、そのものだった。

 マシンガンのように、しゃべる、しゃべる、しゃべる。


『そもそも、いまどきオールディなペーパーで書くなんて意味わかんねえ。いつの時代の話だよ。俺たちは効率を求めてNecoを専攻したんじゃねえのかよ? なんだってこんな非効率なことをやらされるんだよ。社会評価ポイントの観点からしてみてもおかしい。みんな知ってるよな? 社会評価ポイントのためには、最大限に効率を求めなきゃいけない、ってやつ』


 そんな調子で――ずっと、ずっと、ずっとしゃべる。

 すべての論拠が出揃っても、すべての論理が出尽くしても。そしてそれが充分に正当と認めらるような状況であっても、見槻は、語り続けた――そのすがたはやはり、相手がたとえ降参の意思を示しても自分の領土拡大のためにまだまだ軍を進め続ける、帝王のようだった。


 だから、銀次郎は認めた。

 こいつは、最高評価に値する――初回の授業でしかも一瞬で最高評価を勝ち取ったのは、ほんとうに、依城以外だ、と思いながら。


『――おい。もういいぞ。おまえ。名前はなんてんだ』

『はあ? なんすか。まだ、話、途中なんすけど。俺、絶対いやっすよ。なんでこんな非効率な授業を真面目に受けなきゃいけないんっすか。俺、バイトもサークルもやってるんで、マジ忙しいんっすよ、時間は効率的に使いたいんっすよ』

『だあら、おまえはこの授業、合格だから。もうこの授業には来ないでいいし、いますぐ帰ってかまわねえよ』

『えっ、だから、はああ? また先生がわけわかんねーこと言ってる』

『おまえが自分で言ってたんだろうよ。この授業は無意味、なんだろ?』

『いやだからさっきからその話してるんすけどね』

『そうだ、こんな授業は、無意味だ。それを見抜いたおまえは――合格だ』


 金出佐見槻は一瞬、考え込んだ。

 そして直後、その顔がぱあっと輝き――あっ、なんだ、そういうことだったんすか、と笑顔になった。卑屈なようで傲慢な笑みとも、攻めるときの迫力とも違い、顔いっぱいに笑うと年相応の若者らしい可愛げがあった。

 自分の利益が確保できれば、それ以上攻め込む気もない――おそらくそれは、それ自体には利益がないから。


『なーんだ。この授業、それなら最高の効率的な授業じゃないっすか。すんません、先生、俺、誤解してたようで、へへっ』

『おまえが最高評価なのは変わらないから、安心しろ』

『あ、よかった、やっぱ単位って成績いいほうがコスパいいっすよね就活にも有利だしえへへ。じゃあ俺もう帰ろっかな』

『帰るのはかまわねえがよ、もっかい言ってやる、名前を教えろ。事務的な手続きにも必要なんだよ。あと学生IDをスキャンさせろ』

『名前は、金出佐見槻っす。学生IDは家に忘れました、すんませーん。それ、ないとダメっすか?』

『こっちの手間が増えるんだよ』


 学生IDをスキャンせずとも、名前を控えておけば後で手続きはどうにでもなる――ただ、それをどうにかするのは銀次郎ではなく素子だ。その場合は素子の仕事が増えるので、あんまり学生IDをスキャンしないでおくと、素子がそのうち笑顔を顔に張りつけたまま怒りのオーラを出しはじめるのだ。

 それに実際、素子にやってもらいたい仕事は山のようにある。学生対応に、その貴重な能力を偏らせるのは、銀次郎にとっても損失だった。

 だから銀次郎はなるべく学生IDをスキャンするようにしているのだが――まあ、学生がIDを忘れただとかなんだとか、こういうことも、頻繁にある。

 その場合は、仕方ない。素子の仕事が増えて、あんまり増えると怒られるというだけの話だ。


『そんじゃ、俺、帰ります。お先ですー』


 金出佐見槻は手早く荷物をまとめ、大講堂の後ろの出口に向かった。

 教室はやはり静まりかえっている。

 しかし、金出佐見槻が後ろの出口から一歩外に踏み出ると――まるで大講堂全体にかかっていた魔法が解けるかのように、ひとり、ふたりの学生がガタリと席を立ち、数秒の差があってさらに複数の学生がガタリと席を立ち、ちょっと待って待って、と慌てた口調で言った。他の学生たちも次々に顔を見合わせ、そうだよ、教わりに行こう、あれで合格ってなに最高評価ってなに、教えてもらおう! などと口々に言い合い、やがてはほとんどが金出佐見槻を追って、大講堂はがらんとなった。ほんの数人、寝ている学生やぼんやりしている学生が残っただけ。

 いつのまにか風は弱くなり、外を見るとそよ風が植木を撫でていた。

 銀次郎は教壇に戻り、ああ平和だな、今年はひさびさに楽だった、と思いながらノートパソコンを開き、自分のやるべきことを始めた。



 銀次郎は、金出佐見槻を印象的な学生として記憶した。ただ、それはそれとして、銀次郎と金出佐見槻のつながりは、これきりと思われたが――金出佐見槻のNecoプログラミング入門での立ち振る舞いを銀次郎から聞いた寿仁亜が、見槻を直接スカウトに行き、その才能をあらためて見出だした。

 そして彼もやはり、その後しばらくの時間といくつかの出来事を経て――金出佐見槻は、銀次郎の二番弟子として認められることになる。

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