僕といっしょにアフタヌーンティーを

 最初の授業の日。大講堂の大きいガラス張りの窓から注ぎ込む春の陽射しのあたたかく、大層過ごしやすかった日。

 その年度のNecoプログラミング入門は、午後いちばんのコマだった。

 銀次郎はいつも通りの型にはまった、暗記しろ、以上、という説明を終え、ロストペーパーとNecoプログラムのサンプルの印刷されたレジュメを配布する。

 依城寿仁亜は、大講堂の前から二列目の席に座っていた。微笑みを、武装のようにたたえていた。ロストペーパーとレジュメを受け取ると、それらにしばらく視線を落としていたが、銀次郎がすべての学生に配布を終えて教壇に戻るとすぐに――まっすぐ、礼儀正しく、手を挙げた。


『冴木先生。大変失礼であることは承知なのですが、どうか、僕にほんの五分でも、この広い教室でお話をする機会をいただけないですか』

『そりゃあ本気で失礼な話だな。俺の授業よりも価値のある五分を生み出せるってのか、傲慢な話だ。それができるってんなら、試しにほらさっさとやってみせろ』


 銀次郎は教壇の椅子に座って教壇で頬杖をついて不機嫌そうに言ったが、その実、不機嫌ではまったくなかった。いままでにいないタイプの学生、いままでにない展開。期待できた。


 寿仁亜は立ち上がり、恭しくお辞儀をした――どこまでも礼儀をわきまえたその態度は、銀次郎にはやはり武装に見えた。


『ありがとうございます、先生。貴重なお時間であること、重々理解しております』


 そう言いながら、お辞儀の体勢からけっして慌てず元に戻り、貴重なお時間、と言い出したあたりにはもう歩き始めていた。上質な革靴を履いていた。だから歩くたびに、カツン、カツン、と、うるさすぎない、しかし教室じゅうの注目を彼自身に集めてこの場をリードするには充分な足音を、立てた。


『僭越ながら僕は思うのですが――』


 両手をきっちりと、それでいて遊ぶように揺らして歩きながら、優雅に。

 依城寿仁亜は、すでに語りはじめていた。


『本日は、とてもあたたかく、うららかな日です。こういった日には、アフタヌーンティーでも楽しむのがよろしいのではないかと』


 ――アフタヌーンティーだあ?

 銀次郎は少しばかり口の端を歪めた。馬鹿にしているように見える表情だが、実際、馬鹿にしている――しかしそれは銀次郎にとってはたいした問題ではないのだった。彼がなにかを馬鹿にするとき、それは、心の底からの軽蔑や軽視とは、まったく無縁のものなのだ。

 彼は尊敬する相手のことも畏れる相手のことも馬鹿にする。たとえば、リゾート地に別荘を買ったとか、ヒーリングロボットを購入したとか、ブランディなドレスやらスーツやらが好きだとか、あるいは、アフタヌーンティーを楽しむだとか。どんなに尊敬している相手でも畏れている相手でも、馬鹿にする――あくまでもその点においては。


 だから、銀次郎にとっては、つまるところどうでもいいことだった。どうでもよくないのは――この次の瞬間の、このふてぶてしい学生の行動だった。


 依城寿仁亜はそして、教壇の目の前までやってきた。

 銀次郎は座ったままで立つことはせず、睨みつけるようにして寿仁亜を見上げる。

 寿仁亜は敬意と愛想しか読み取れない、感じのよい得体の知れない表情を、陽射しの関係ですこし陰ってさらに読み取りづらい状況で、銀次郎に返してきた。そして――言うのだ。


『先生にもぜひおいでいただきたいのです。僕は先生を敬愛しております――オープンキャンパスでの授業のときから。だから、僕のこれから申し上げることが、的外れではなかったら、ぜひ、僕といっしょにアフタヌーンティーを』

『俺ぁな、悪ぃがそういうチャラチャラしたもんは嫌ぇなんだ』

『重々、理解しております……』


 依城寿仁亜は、やはり本心の読み取れない顔をして笑って――くるり、と銀次郎に背を向けた。いや、銀次郎に背を向けたのではないのだろう。教室の面々に身体を向けたのだ。

 そのとき、寿仁亜の着ていたベージュのカーディガンがひらりと、舞った。地味な色合い、ただのカーディガン、それなのにそれはまるで、おとぎ話の王の真っ赤なマントのようだった。


『Necoプログラミング入門を受講しているみなさん。この授業を通して、僕たちは、冴木先生の偉大さをあらためて実感できたことと思います』


 ざわざわ、と大講堂じゅうがざわめく。おもしろがっているような者もいたにはいたが、たいていは、戸惑いのざわめきだった。そもそもが困惑しているのだ――どうしてアナログベースであまりにもオールディに過ぎる書き取り作業なんか行わなければいけないのだ。なんにも意図が見えていない者が毎年ほとんどのこの授業、今年度も、依城寿仁亜以外はきっと例外ではない。

 しかし、依城寿仁亜はそのようなざわめきにも一切、ひるまなかった。むしろそのざわめきさえも、喜ばしいと言わんばかりに、受け止めて抱きしめるかのように両手を広げた――マントのごとしカーディガンがふわりと広がり、光を受けて影を受けて、ほんとうに、彼は王のようだった。すくなくとも、銀次郎にはそのように見えた――もうずっと忘れていた、子どものころには大好きだった王という存在の織り成すおとぎ話。いつのまにか、Necoプログラミングには不要だ非効率だと切り捨てていた、そんなはるか遠い日の思い出。

 ……こんな感傷的な気持ちになってしまうことは珍しくて、銀次郎は思わず頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。不要なのに、非効率なのに、こんなの、無駄なのに。


 依城寿仁亜は、にこやかな声のまま続ける。


『それはどうしてかといいますと、冴木先生は僕たちにいままさに教えてくださったからです――暗記とはまさしく、Necoプログラマーにとっては不要、非効率、無駄であると!』


 大講堂のたいていの者は、ぽかんとしていた。

 ただ、一部の者は――もしかしたら、とでも言わんばかりのハッとした顔を見せた。……意図に、気がついたのだ。


 依城寿仁亜は、大講堂の学生たちすべてに対して説明をはじめた。その姿はさながら教員。本来そこにいるべきは教員である銀次郎かもしれないが、銀次郎はしいて止めなかった。不快な気分などもなかった――ただ、よくぞここまで俺の意図を汲み取って、かつ、あほな学生どもに対しても伝わるように説明しやがる、と思って、腕を組んで、顔をしかめた。


 その話しぶりは丁寧で、情熱的で、それでありながら根底はどこまでも冷静に思えた。冷徹なのではないかと思えるほど。

 彼が説明するたびに、うっとりとする学生がひとり、またひとりと増えていった。もちろん、男女にかかわらず。たとえうっとりはしなくとも、感心したように、納得したように、何度もうなずいたりメモを取る、そんな学生も増えていった。

 彼が説明を終えるころには、おそらくこの場にいるほとんど全員の学生が、銀次郎の意図を理解して――そしてそれとおなじくらい、もしかしたらそれ以上に、依城寿仁亜という人間に対しての興味やまるで恋慕に似た気持ちを、掻き立てられていた。


 そんな彼は、顔だけで振り向き銀次郎を見た――春の眩しい光が、やはり、彼の顔を絶妙に陰にしている。


『……ですよね? 先生』


 演説していたときには、冷徹とさえ思えた彼は、いまは違った。

 妖しい、微笑とともに。その表情は、火照り。その瞳は、潤んでいた。おとぎ話にたとえて言うならば、まるで王子に恋した姫の顔だ――そして彼のその対象はおそらく自分だということに気がついて、……上等じゃねえか、と銀次郎はおもしろくなってきた。


『ああ。上等じゃねえか、おまえ。名前は、なんてんだ』

『依城寿仁亜、と申します。お名前を尋ねていただけるなんて、光栄です。先生。……僕は、冴木先生に教わりたくて、この大学に入学したのですから……ようやく、ようやくお会いすることが、かないました』


 銀次郎は、思う。

 ほんとうに上等だ、こいつは、……俺に心底本気で教わりたくて、来たのか。歴代でいちばん、普段からはありえないほどのスピードで、初めて、俺の意図に気がついて……俺の教室の空気をこうまで支配してみせる、この学生は。そうか。……俺に、教わりに。


『おい。依城』

『なんでしょう、先生』

『おまえは合格だ。Necoプログラミング入門、満点で通してやる。ほかのやつらも合格にしていいぞ。そのこと、おまえから受講者全員に伝えてくれ。それと、おまえも含めた全員の学生IDの回収。できるか』


 一気に、いろいろと頼んだ。この学生ならわかりましたと快諾するのではないかという、……そういう読みが、あった。

『先生に用事をお願いしていただくとは、光栄です。そのように、させていただきます』


 やはり――銀次郎の読みは、当たった。

 依城寿仁亜は、……嬉しそうだった。


『もう今期はこれでこの授業は全員合格でおしまいだ。……ああ、そうそう、ほかのやつらはおまえほどの高い成績にはならんから、安心しろ』


 依城寿仁亜は目元を笑顔のかたちに細めると、顔を学生たちのほうに向けなおした。カーディガンが、また舞う。

 納得した学生たちに、依城寿仁亜は――勝鬨のように、右の腕を挙げた。その右の腕の動きにも、カーディガンが、マントのようについていって――。


『先生は、みなさん全員に単位をくださいます。ですから、みなさんでアフタヌーンティーをしましょう』


 学生たちが、なにかを反応する前に。

 銀次郎は、立ちあがった。


『俺も行く』

『……先生』


 依城寿仁亜は、振り向く。その顔には純粋な驚きが浮かんでいて――でも直後、はにかんだような、ほんとうに嬉しそうな笑顔になった。


『ありがとうございます! 僕といっしょにアフタヌーンティーを――』



 その日。

 Necoプログラミング入門を受講していた学生たちは、依城家が急遽その利用権を買った新時代情報大学の中庭で、依城家から用意させた贅沢で大規模なアフタヌーンティーのパーティーに参加し――銀次郎も、参加した。

 依城寿仁亜は上品でスマートな慣れた立ち振る舞いで銀次郎にあれこれ紅茶をおすすめしながら、いろんなことを、語った。とても楽しそうに、嬉しそうに。どれだけ銀次郎のもとで学びたかったかを――語った。


 

 Necoプログラミングのような専門的な技術分野では、実質的な師弟制度が当たり前に存在している。

 自身には師匠的存在がいるが、弟子を取る気はまったくなかった銀次郎は――このとき、生まれてはじめて、……ああこの学生はつまりはそういうポジションになる可能性もあるな、などと、それまでの自分らしくもないことを思ったのだった。


 そして事実、その後しばらくの時間といくつかの出来事を経て――依城寿仁亜は、銀次郎の一番弟子として認められることになる。

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