対策本部

 ノルマってなんだよ、という反応を銀次郎が見せたのは、妥当なことだったろう。寧寧々も、最低限それに応える必要はあると判断した。


「私はいま、自身の研究の最先端を生かした技術でできることで、春から依頼を受けている。これがまた、泣かせるほどいい話でな――とある女の子を助けたいから、春はがんばると言っているのだよ。どうだい、泣けるだろう」


 泣けるだろう、などと言うわりに寧寧々の表情は淡々としている。

 ああ泣けるな、と言った銀次郎は、それよりも更におざなりなようすだった。


「もっとも、あいつにそんな相手がいるとしたら、そっちのほうが驚きだよ。ありえねえだろ、来栖が特定の彼女ってよお」

「学生時代の春はそんな感じでもなかったのか」

「そんな感じ? ハッ、生ぬりぃ。すべての人間との接触を拒絶するような雰囲気だったよ」

「それはまあ、私に対してもあるよ」


 まるで単なる他愛のない会話のよう。しかし、その他愛のなさは――冴木銀次郎と高柱寧寧々という、分野は異なれどそれぞれ一流である研究者のふたりが、困惑してなにかを持て余していることを示していた。そしてそれはもちろん、よくあること、ではない。


「しかしまあ、そういうわけで。来栖春の言っていることは、とてもプライベーティなことで、なおかつ私にはこの言いかたで伝わるという性質のものだ。本人の人権によるプライバシーを配慮して、そこにかんしてはこれ以上突っ込まないでくれるとね、どうだろう、助かるのだけど」

「俺様はなあ、除け者にされるってーのが大嫌いなんだよ。だがおまえの言うことは常識的にはもっともだってこたぁ、わかるよ。ここはそういうことにしといてやるよ。不本意だがな。おい、覚えとけよ」

「すべてが片づいたら春本人から聞いたらいい。あなたは春の担当教員だったのだろう」

「はん。だからってあいつがそんなプライベーティなことを俺に言うかな」


 ともかく、春の求めていることは、これで寧寧々には伝わり――ほんらいであれば毎日のノルマを見せに来なければいけないと定めていた寧寧々は、……オリビタに耐えうるほどの歩行ノルマをほんとうに幸奈がこなしてきたならば、そのあたりは柔軟に対応してやろう、と内心決めているところだった。

 だが、そのためのノルマというのはそう低いラインではない――オリビタ投与の安全性や、ほかのオリビタ投与者との公平性なども考えて、あまりそこを譲歩しすぎるわけにはいかない。ほんとうは、そのあたりもふたりには徐々に、厳密に、指示していくつもりだった。……自己判断だけで、春は幸奈にそこまでの厳しいノルマを課すことができるのだろうか。それにかんしては、寧寧々は不安を抱く。



 そして。

 春が、本物の春だとわかったうえで。

 いまわかっている限りのひと通りの状況説明を聞いた寧寧々は、深いため息を、長く、長く吐いた。


「……彼は、厄介ごとに巻き込まれることにかんしては、天賦の才でもあるのだろうかね。しかも、聞けば聞くほどとんでもない事件じゃないか。けっしてこれは皮肉でもなんでもなく変な意味にとらないでほしいのだが冴木教授、あなたというNecoの第一人者をもってしても原因不明だとは」

「うっせえよ。俺だってこんなこた、めったにねえよ」


 銀次郎は、春の用いたプログラムをすでにすべて解析し終えた。その結果、プログラムのなかの端々に、次元が異なっていても無事に届くような工夫がなされていることはわかった――しかし反対に言えば、わかったことはそれだけだったのである。


 銀次郎は両手で頭を掻いた。


「……正直、もっと時間が必要だ。そうすれば、より詳しい解析ができる。あいつ、こんなときくらい素直なプログラムをしろってんだ。解析するがわも時間がかかるってんだよ、畜生」

「ああ、先生、お話中すみません。そのことなんですけどー」


 寧寧々への説明のあいだに、銀次郎に頼まれていた仕事はひと通り済ませた素子が、この場にはふさわしくないほど、でも秘書としてはふさわしく、おっとりとして丁寧さを感じさせる口調で口を挟んできた。


「教務のみなさまがですね。採点業務については良きに計らってくださってくれるそうなんですけども、そのうえでですね、やはり公園事件については先生が対応すべきではないかとー」

「それも伝えたのか」

「はいー、独断で申し訳ありませんでしたー。独断に対する私の社会評価ポイントは、差し引いておきましたのでー」


 あまり申し訳なさそうに謝る素子。その一回の独断のマイナスのぶんは、銀次郎の一回のハラスメント的発言で、相殺どころか素子におつりがくるほどだ。

 そのことを銀次郎はもちろん知っているし、それであっても素子がみずから社会評価ポイントのマイナスになるような独断をおこなうことは、日頃からあることではない。そして素子がそこまでしておこなった独断は、いままでほぼ百パーセント、結果的には銀次郎の益となったことであった――どうせ翌朝には知られることだ。教務課にもいま知らせてくれたほうがたしかによかったな、と銀次郎は内心ありがたく思ったのだった。


「……勝手なことしやがってよ。でもまあ、しゃあねえな。俺が対応するって、どういうことだよ」

「やはり先生はこの大学でもいちばんのNecoの専門家でいらっしゃいます。そして、この問題は、Necoがかかわっていることが明らかになりました。ですので、具体的には公園事件の対策本部を先生の研究室にしたうえで、先生をリーダーとして、この問題の解決にあたるべきではないかとー」

「おいそれ、マジで教務のだれかが言ってたのか?」


 対策本部って。判断が速いのはいいが、速すぎるような気もするし、あまりに本格的な決定でもある。銀次郎は少々戸惑った。

 しかも教務課はいまの時間帯は完全夜勤体制のはずだ――数人の判断で、そこまでのことが決まるものだろうか。


「実はですね、これは学長先生と教務課長さまの合意でもありましてー。教務課長さまは、すでに教務課のみなさまはもちろん、学内の関係者のみなさまのご意見をうかがいまして。この事件にはすでに被害者のみなさんがいることや、救出の必要性、不透明性など、総合的な緊急性から考えても、やはり先生が中心となって、迅速に対策本部をつくるのがベストではないかと、そういうご判断なんです。ちなみに、学長先生は冴木先生に対して、困難な事件だが、非常に期待しているとのことですー」

「……あんのタヌキ学長」


 銀次郎は頭を掻きむしった。しばらく、掻きむしって、掻きむしったあとに……。


「うっせえな、もう! 俺がやりゃあいいんだろ、やりゃあ! 俺様以外はみーんな無能で、俺様しかできねえってことだもんな! ああもうバカどものせいで俺の仕事が増える増える!」

「さっすが、先生、すばらしい! その意気です! きゃあ、すばらしすぎますよー、先生! ファイト、ファイト!」


 ひたすらに口が悪く、言い過ぎな銀次郎。そんな銀次郎を、落ち着いた雰囲気からはちょっと意外なほどのはしゃいだ声とガッツポーズで、すごいすごいと大袈裟に励ます素子。……手慣れている。たぶん、扱いかたを、ものすごく心得ている。

 うちにもああいう元気な秘書がひとりくらいいても良いのかもな、と思いながら、寧寧々はもう一口コーヒーを啜った。

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