第九章(下)

六日目

異世界での、朝

 ……それでも、語りかけ続けた。



 ……ぴこぴこ、と音が聞こえた気がして。

 はるか高みから。

 すぐに、消えた。僕は後頭部に手をやって、髪をわし掴むかのように、ぐしゃりとした。たぶん、僕は、極限状態だ。それゆえに、……ついにありもしないものまでが、聞こえてきたか。


 もっとも、この世界。

 なにが、あるのか。ないのか。そんなのは、わかったもんじゃない――。


 ……僕は、口のなかだけでつぶやくのをやめた。

 あまり長く、やり過ぎるものではない。こういうのは。あくまでも、変な裏切り者がひとりでなにかをぶつぶつと、つぶやいている――そういうことに、しておきたいのだから。



 ……そう。僕は。なにが、なんだか。

 閉じ込められて、責められて。さばき、とやらを待つ存在に――なってしまった。



 閉じ込められている檻の向こうでは。

 うっすら、明けはじめている。

 この世界でも、やはり夜は明けるらしい……だがその時間や法則が、厳密に僕たちの通常暮らす世界とおなじであるかどうかは、わからない。



 公園の広場と、かたちはおなじ。ただ、やはり――すべて水晶になっている。まるで地の果て、どこか別の世界。つるりと……ただそこに、沈黙して存在している。




 急に、投げ込まれた異世界。あるいは、異世界のごとき世界。

 変質してしまった、水晶でできたような世界。なにもかも、常識の通用しないこの世界。

 頓狂なゲーム、僕とついでに南美川さんと、葉隠さんを糾弾した公園のひとびと。

 水晶でできた檻。


 葉隠さんは、この檻のなかでは僕からはいちばん遠いところで、水晶の檻に背中を預ける格好で静かに眠っている。檻が背中に冷たく刺さりそうだが、……どちらにせよこの檻のなかで、ゆっくりとあたたかく眠れるわけもない。僕のようにしゃがみ込んでいるのも、葉隠さんのように檻を背もたれにするのも、たしかにどちらも変わらないと思った。


 ……南美川さんといえば、僕の膝の上で、まるくなっている。コンパクトな全身、その背中と尻をつるんときれいに剥き出しにして。ただでさえ小さなその身体は、普段よりももっと小さくなっているように感じた。それはこのひとがほんとうにぎゅっと小さくまるまっているからだろう。……このひとは、夜に葉隠さんと僕が話したあと、脅えている。そんな、脅えなくてもいいようなことを、でも、きっと、……脅えている。

 眠ってもなお、恐れているのかもしれない。


 そんなふうに全身で本能で怖がる彼女のこをと想って。

 僕は、思わず。南美川さんが愛しいと思った。思ってしまった。そんなことを。……こんな、劣等者の分際で。

 あんなに気高かった、僕の世界のすべてであった、南美川幸奈のことを。

 でも、仕方ない。そう感じてしまう、もうそのことじたいは、どうしようもない……だから、僕は。南美川さんの口に指を這わせ、そのなかに入れようかと思った。でも、やめた。なんとなく、ただなんとなくだ……その頬に涙の筋のあとがあるからとか、そんなことはたぶん関係ない、……いや、関係があるのかな。

 その代わりに、その敏感な耳の後ろを、ちょっとだけ強くひっかくように、掻いた。南美川さんが、ちょっとだけ呻いた。眠りを妨げるのも悪い気がする。眠りくらいしか……落ち着ける時間は、ないのかもしれないのだから。

 僕は、南美川さんをいじる手を引っ込めた。……これでは、まるで、意地悪な飼い主だ。そうではない。そうではないというのに――。


 いいじゃないか、と僕は自分に言い聞かせた。ごく、小さな声で。……けっきょく僕は眠らなかった。先に葉隠さんが、そしてその次に南美川さんが震えながら眠ったのを見届けて。そのあとしばらく、だれもこの檻のようすを見に来ないことを、確認して。……そして、始めたのだ。

 やらなければならないことを。

 僕のできること、もしかしたら、……下手を打ったら死んでしまう、あるいは、まともなかたちで元の世界には戻れない。ひとりの人間として、戻れない。……こんな状況において僕が、それでも、……託すものを。


 だから少しくらい南美川さんの感情で僕自身の感情を包み込んだって、いい……もちろんそれは言い訳だった。そんなことくらいわかっていた。あんまり自覚はないけれど、……やはり、僕は、極限状態なのだろう。



 公園に来てからの、めちゃくちゃな日々――。

 


 ……なにはともあれ、六日目だ。

 南美川さんの歩数ノルマは、またしてもプラス千歩。

 今日は一万六千歩を歩ききらなければならない。

 しかし、このような状況では、現実的に難しい。難しいけれど達成しなければいけない。なにがあっても達成しろと、……ネネさんは、指示を出しているのだから。


 僕は、またしても後頭部に手をやって、髪をすこしだけぐしゃりとした。

 まず考えなければいけないところは、それだ。

 このような状況下で……南美川さんの歩行ノルマを、どうやってこなす?


 僕と檻のなかにいたのでは、当然それはこなせない。

 檻のなかでぐるぐると歩いてもらえば、あるいは……ほんの一瞬そう考えたが、それは非現実的だ。歩行ノルマは結構ぎりぎりなところに設定されている。日を追うごとに、そうなる。檻のなかをぐるぐるしたのでは、効率が悪くて達成できないかもしれない。

 それに、僕自身が閉じ込められていて、……なにをされるのか、わかったものではないのだ。なにをされるかは僕にはほんとうにわからないが、ともかく、……なにかをされる僕を見て、もうすっかり僕にすがるしかなくなっている南美川さんが――絶叫したり、泣き叫んだり、喚いたり、あるいは強く動揺することは、充分に考えられる。その場合、……やはり歩行ノルマの達成は、現実的に難しくなるのではないか。南美川さんは、歩くどころではなくなってしまうから――ましてやいまの南美川さんの心は、もろいのだ、……とても。



 ……さて、考えなければいけない。

 優先順位と、やるべきこと。



 南美川さんは、まだ眠っている。

 葉隠さんも眠っているし、公園のほかのひとたちが来るようすもない。


 僕は水晶の檻ごしにぼんやりと変容してしまった世界を見ていた。


 一睡もしていない、異世界での空。明けていく空。

 ……虹でふざけたメッセージが書いていないということがわかっただけでも、まあひとまずは、……そんなものがあるよりはよかった、と思うのだった。

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