社会では、当たり前のこと
「おはよう、研究者志望クラスの諸君。今日もみなは元気かな?」
担任の和歌山は出席簿を肩に載せて、教室に入ってくる。わざとらしくて、おもしろくもないそんな朝の挨拶に、南美川さんたちは、手を叩いて笑う。おもしろくてたまらない、とでもいうかのように。
……僕は教室のいちばん後ろの、みすぼらしいスペースに正座したまま。いますぐにでもほんとうは、ここから帰りたい、と強く願いながら、そうすることもできずに、じっとしている――。
和歌山は教壇に立つと、教室を見回した。親しげに。まるで、ここにいる生徒ひとりひとりが、全員教え子としてほんとうにかわいくて、いっそ愛おしいと言わんばかりに。僕のことは、……見ない。
「ではホームルームをはじめるが――残念なお知らせがある。賢明なみんななら、もう知ってることだろうけどな、……ははっ」
ひきつるような笑い。自分で自分を笑うかのような。
だから、なにも、おもしろくはない。
「このクラスから劣等者が出た」
「はいはーい、センセっ」
「どうした、南美川さん」
まっすぐ右手を上げた南美川さんに、和歌山は発言を促した。
「それって、来栖春のことですよね。偏差値二十九ってヤバくないっすか――?」
「はははっ、先生もそう思うよ。もっとも本人は、信じたくなかったようだけど。みんなよく覚えておくといい、そうやって自分の能力を客観視できないのも、劣等者の特徴なんだって」
「えー、劣等者ってー、ヤバいですねえ」
南美川さんはそう言って、手をおろすと、こちらを振り向いて笑った。けれどもすぐに前に向き直る。頬杖をついて、脚を組んで――ああいうふうにいつも授業を受けているのだろうか。いかにもギャルっぽくて、不真面目そうなのに、……あれで、学年、次席。
前のほうで、峰岸狩理が筆記用具を取り出して、ちょっと猫背ぎみになって、なにかメモをしているのが見えた。劣等者の特徴とは――まさかそうメモしてるんじゃないだろうな、だなんて、どこか見当違いだと自分でも思うことを僕は、なぜだか思った。
「このクラスのみんなは、すでに彼に、スペシャルな席を用意してやっているようだけど」
僕を見てきた。教壇の高みから、この低みへと。その目つきはあきらかに僕を見下していた。その目つきは、あきらかに――僕を見れば見るほど、僕への関心を失っていくようだった。……優秀者が好きなのだと昨日自分の部屋で語った教師。
そのままこの教室をまた見回していく、……まるで慈愛に満ちた理論を語ってまわるどこかのだれかのような声の調子で穏やかさで、でも、目だけはどこか疲れたように笑っていない。
「……社会では、当たり前のことだよなあ。劣等であればあるほど、その集団での権利を失っていくんだ。優秀になるために、当たり前の努力をする。それはいい。必要なことだよな。でも自分を客観視できないことは、罪だ。その集団全体の生産性を落とす。生産性を落とすだなんて、社会に出たら許されない。人としても許されることではない。生産性を落とすということは、人類全体の福祉と、ひいては幸福を脅かす。……人類のためには、劣等者をどんどん削ぎ落としていかなくては、ならないんだ。なあ、そうだろう、みんな」
クラスメイトたちは、ときおりうんうんとうなずいたりして、朝のホームルーム、和歌山の話をよく聴いている。あるいは聴いているふりかもしれない。
けれど、ともかくも――和歌山の言っていることじたいは、ある意味では至極まっとうなことだった。とくにこのクラスにいるような、相対的優秀者にとっては、……たぶん、うなずけるようなことばっかりで。
和歌山は。
ある意味ではほんとうに、教師らしい教師だ――この社会の価値観というものにうまく適合して、そうやってこの社会の価値観を生徒に向かって語ることができて。たとえ自分がかならずしも優秀という立ち位置にいなくとも、生徒にそれを託して。昨日の和歌山の話をそのまま飲み込むのであれば、そんな優秀な生徒たちに先生先生と生涯慕われる。
そうすることで、この社会において、……一定の立ち位置を見出だしているのだろう、そのことならば――よく、わかる。
和歌山のホームルームは、すこし話が長かったけれど、そこそこで終わった。そもそも和歌山は、あまり熱弁しすぎないほうだ。……優秀者の生徒たちを相手している、という自覚が、そうさせているのかもしれない。
……そして、今日も一日の授業がはじまる。
僕が、こんな状況だって。なんら変わりなく。もちろん配慮などなく。
僕の立場だけが変わって、そのまま高校のいつも通りの日課が、はじまっていくのだ――ある意味。
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