震えて
――いま、なにをしろって言った?
「こっちはさ、迷惑してるのよね。だからそのくらいの誠意を見せてほしいわ。ほら、できるでしょう?」
できるでしょう、じゃないだろう。
そう言いたい、でも、その権利はない――ああ、この思考は。いつまでも、どこまでも、……堂々めぐりで。
「自分でできないんだったら、手伝ってあげてもいいけど。……そのときはちょっと、痛いことが、増えるかもね」
痛み。
それを理由に脅してくるなんて、ずいぶんひどい、……ひどいじゃないか、さっきからさあ、そんな、人間未満に対するみたいな――ゆるさない。
けっして、ゆるしはしない。
そう思いながらも、僕がじっさいにしていることといえば、正座で――目の前の床を見つめているのだった、ああ、ここに、……手をつけば、いまこの苦痛は終わるというのか。
そうだ。両手をついて。あとは、ゆっくり、頭を下げるだけ。……競技スポーツで、選手だって試合開始のときに頭を下げるだろう。いやそれだけではない、人間どうしがたとえば敬意を示しあうときに、頭を下げるだなんてことはむしろごくふつうのことなんだ。そう考えよう、と思った。そう考えるんだ、僕。
たいしたことはない、って。ふつうのことなんだ、って。ありふれているんだ、って。そうでなければ、ただの事故だ、あるいは単なる礼儀。そうだ。そんなふうに思おう。だって、そうじゃないと――。
けっして、顔はあげまいと決めた。
勝ち誇る南美川幸奈の顔を、おもしろがるクラスメイトたちの顔を、見たくはない。
……僕はそっと両手を伸ばした。
冷静なつもりなのに、震えていた。
ぺたん、とついた手のひらの、床から伝わる感触が、やけに冷たい。
土下座って、する直前は四つん這いみたいなんだ。そんなどうでもいいこと、……人間であるかぎりはほんとうに本気でどうでもいいことを、僕はいま学んでしまった。
そして、そしてそして――あとは。このまま。頭を、下げるだけだ。わかっている。そんなのは。物理的運動に過ぎない……ただ首を曲げるというだけのことだ。そこに深い意味なんかないし、決定的な価値もない。物理現象、生理現象……どんな名前をつけたって、いい。とにかく、これは、……これは、違うんだ、けっして屈したとかではない、僕は、僕はあくまで合理的に迅速にことを処理しようと――。
……自分の思考がめちゃくちゃなことくらい、ほんとうは、わかっていた。
そう思ってしまった瞬間――たとえ一瞬でも、冷静になってしまった瞬間。吸う息は胸に刃物のように突き刺さるかのようで、吐く息は僕の肺にあるすべての酸素を奪っていくかのようで、この、状況は、……僕を殺してしまうものなんじゃないかと、そんな、そんな非常によろしくない――妄想ばっかり、浮かんできて。
僕は。
自分の両手の甲を眺めながら、呆然と、していた。
こんなことに、なると、思わなかった。
学校で、クラスで、土下座することになるなんて。それも、正当に。そんなこと。ふつう、だれが思う? ごくふつうに暮らしていただけのつもりなのに――それなのに。
それなのに、でも。
僕は、それを、しなくては、いけないんだろう。
その現実が突き刺さり、圧迫してきて、のしかかり、要求する。
……僕にまともではないふるまいをすることを、要求する。
僕は。
震える心と身体を、必死に抑えながら、首を、傾けた。そのまま、床へ。頭を。おでこを。つけた――。
自分がいまどう見られているのかと思うと、叫び出してしまいそうで、発狂してしまいそうだった。土下座するすがたなんてさぞかし惨めだ、まさか、それが自分だなんて。いやだ。いやだ。いやだいやだいやだ――そんな僕の丸まっただろう背中に、……土下座すがたなんて最悪のすがたに、わざとらしいシャッター音、そして、あははっと高くどこまでも響くようないっそ澄んだ笑い声――こんなことをさせた張本人は、嘲笑っているんだ、僕のことを、そうやって、……そうやって。
ゆるさない、ぜったいにゆるさないだなんて、でも――土下座させなから心のなかで叫んだって、……その気持ちだけが強くなる一方で、ほかは、……ほかは、どうしようもない、この僕の気持ちなんかいま世界でいちばん――どうしようもないことだってわかったから、僕の心も身体もずっと、……ずっと、もっと、震えてきたんだ。
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