おまえ

 和歌山の向かいに、座った。

 荷物の置き場に一瞬困るが、なんのことはない、この机は教室で使っているものとおなじなのだから、机の脇にいつも通り引っかけておけばいいのだった。

 目の前には、白色の薄汚れた壁を背中にして、和歌山。

 左手にはいま入ってきた扉があって、右手には窓がある。カーテンもなにもなく窓が剥き出しなおかげで、妙な塩梅に、光がたっぷりと入ってくるのだ。

 ……こんな状況でなければ、眠たくなるような陽気。


 どこかで、雀が鳴いていた。……機械鳥の雀音声だろうか。



「単刀直入に言うぞ。来栖。成績がマズい」

「はあ……」


 僕は、ぼんやりとした返事しかできなかった。ぼんやりとした返事をしたかったのではない、反抗したかったのではない、ましてや状況がわからなかったわけでもない。……ただ、現実感が、なくて。


 和歌山は、机に肘をついて両手を握り合わせる。教師なのに生徒みたいな仕草。もうけっこうな歳だろうに、とてもくたびれた雰囲気があるだろうに、それなのにどこか、生徒みたいな仕草がそう不自然ではないこの教師。


「さっき成績表を渡しただろう。見たか」

「はい」

「何点だったか。言えるか」

「……数学が、二十五点。理科が、二十点。一般科学が、十九点。人文教養が、三十二点……です」


 和歌山は手元の出席簿に視線を落として、なにかを確認したようだった。おそらく、僕の点数でも見たのだろう。


「ああ、その通りだ。それで、人文教養などというのは、人生において必要ないおまけだから関係ない。問題は、数学と理科と一般科学だ。これらの試験、何点満点だったか、言えるか」

「数学も理科も、一般科学も、百点満点です……人文教養も」

「人文教養は関係ないって言っただろう」


 和歌山は、うんざりしたようにため息をついた。この教師は、やはり妙なところで、おもしろがったりうんざりしたりするようだ。端的に、……面倒なタイプだ。


「まあ、いい。じゃあここで簡単な頭の体操だ。数学と理科の来栖春くんの得点率は、何パーセントでーすか」


 妙な棒読み。おもしろくもない。でも和歌山はやはり自分で自分のツボに入ってしまったようで、なんてな、などと言ってちょっとおかしそうに唇を持ち上げているのだった、……だから、ぜんぜん、なにも、おもろくもおかしくも、ないって。

 それに、頭の体操――この言葉もよく使うけど、いくらなんでも、……百点満点中の得点をそのままパーセンテージに直せなんて、さすがに、……さすがに、高校生の標準というものをわかっているのかどうか、疑わしくなる。というかそもそも高校一年や中学までの僕の成績のことを多少なりとも知っているのか、不安になる。僕はそこそこそれなりの水準でいままでもやってきて、だから、さすがにそんな単純すぎる問題は頭の体操にもならないんですけど――。


「……数学が二十五パーセントで、理科が二十パーセントで、一般科学が十九パーセントですけど」

「そうだ。すごいすごい」


 こんどは、にこりともしない。なんなんだ、ほんと、……この教師。



「それで。おまえはいつもこんな点数なのか?」



 僕はばちりと殴られたように顔をあげた。いま、おまえって言ったか。他人のことを。生徒のことを。未成年とはいえ、未来に期待を込めて、人権が確保されるはずの――この僕のことを。

 もちろんいままで和歌山におまえ呼ばわりされたことなんかなかった。いままで出会ってきた教師たちにも、だ。……おまえ、という言葉は、蔑視言葉として人権上問題視されている。


 いや、あるいは、……聞き間違いか。おまえは、と聞こえたものは、ほんとうはべつの言葉だったのかもしれない。すぐには思い当たらないけど……そうだな、それでは、とか。あとは、どうして、とか。そういう言葉だったのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。そもそも和歌山はちょっと話しかたがモゴモゴしていて、聞き取りづらい。だからきっとそうだ。だってそんないまどきおまえだなんて、人権の程度の低い者に対する言葉を未来への期待が込められた未成年者にかけるだなんて、そんな――。




「おい、おまえ、どうなんだよ。聞いてるんだよ。おまえに」




 蔑視用語だ。

 だから。

 そんなこと、ない、はずなのに、……どうして。

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