正しさの表情
畳みかけてこられるかと、思った。
しかしなんだろう、予想に反して南美川さんは、ぎゅっと口を引き結んでつむぐと――それ以上のことを、言ってこなかった。
……静かになる。
かえって違和感の強くなった僕は――いちど、顔をあげてみたけれど。
南美川さんは、たしかに言葉をそれ以上なにか重ねるのは、いま控えてくれていたけれど。
ただ、そのどんぐりみたいな大きな目で、僕のことを見ていた。じっと、見ていた。なんにも、なにひとつ、僕の挙動を逃すまいという視線で。
……それは。
正しさの、表情だ。
言葉以上に饒舌な、その表情に――僕は気圧されてしまって、またうつむいて、……でも、ついいままでそうしていたみたいに膝に顔をうずめるまでのことは、できなかった。いや、もちろん、そうしたかったんだ、もちろんのこと。
でもそんな僕のことを南美川さんがそんなずっとまっすぐ見つめているのかと思うと――なにかがつかえて、呼吸するのさえすこし苦しくなって、だから、……ほんとうは顔をうずめていたいのに、そうはできない。でも顔をあげ続けていることだって難しい――結果としてそんな中途半端な態度と身体の位置で僕は、……沈黙していた。
いまこうしてうなだれていたって視線を感じるくらいだ。
気のせいなのかもしれないけれど、僕にとってその気配はほんとうのことだ。
ほんとうで、近くて、こんなにも、濃厚なこと。
……正しさをもってして南美川さんは僕を見ている。
わかるわよ、と。すべて、わかるわ、と。
あるいは、わからないことがわかるわよ、と。
誤解してたの。しょうがなかったの。でもね、それはねシュンって――僕の先生でもなんでもないのに、……そういう態度を、全身で発して。
南美川幸奈が、そういう人間であることは知っていた。
僕はこのひとと高校時代のかなりの時間を共有したんだ。もちろん、それは、友達どうしとしてとか、ましてや恋人どうしとしてとか、そういうのとはかけ離れていた関係性、あまりにも天と地のような関係性だったけれど、でもそれはそれとして時間ならばたっぷり共有したのだった。
だから、なんかいも見てきた、たくさん。このひとが、他人にそういう正しさを向けるところを。
それによって、たしかに助かっていたひとたちがいたところだって、目の当たりにしてきたし。その反対で、どこか曇るようなようすのひとがいたことも、僕はごくたまにだけれど、その現場だって見てきたのだ。
南美川幸奈は、優しい人物だった――彼女が人間だと認める相手ならば、だれに対してだって。男女問わず、関係性問わず、彼女はいつでもどこでも困っている人間に対して、正しさを根拠とした優しさを、時間も惜しまず向けていた。
でも僕は憧れていたように思う。
つまりは南美川幸奈に正しさを向けられて、わかっていたひとがいたんだと驚いて、ときには涙を見せ、ときには八つ当たりをして、でもそれでも、最後は助かったという気持ちいっぱいの満面の笑顔を見せるひとに、僕は。
そうして助かっていくひとたちに、憧れていたのだと思う。
たいていは文字通り這いつくばって、その現場を見ていて。
僕は。僕にも。この僕にとっては天とひとしい位置にいるひとの、そういう気持ちを対等に向けてもらえるならば。どんなにか、どんなにも、幸福なんだろうってそれこそなんども夢想したように思う――。
……あのときの。
切実で、衝動的すぎて、いっそ、暴力的すぎるほどの願望が。
まさか、……何年もあとになって、しかも、……こんなかたちで。
かなえられるとは、思っていなかったけれど。
しんどいなあ――しんどい。あのとき南美川さんに助けられて、それでほんとうに助けられたひとっていうのは、……それだけで、もしかして、まともなひとたちだったんじゃないだろうかと思うくらい。いやそりゃ、僕に比べればすべての人間はまともなのだろうけれど、だから、なんというか、……僕が思っていた以上に、もっと。
もっと、まともだったんじゃないか――すくなくとも南美川さんの正しさを受け入れるだけの正しさを、もっていたんじゃないか。そんなことを、妄想的に思う、いま、こんなときでさえ僕は、……やっぱり自分の芯からどろどろとして拭きとれきれない、劣等感をもってして。
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