ミサキさんの、正体

 植物人間は、そこにいた。

 雑木林の入り口のような、一本の木にしっかりと取り込まれて。


 このひとが植物に取り込まれる前には、ここにもたくさんひとがいたというのに――いまはみな広場のほうに移動してしまって、……つまりはこのひとと距離をとってしまって、もうすっかり、静かだ。



 植物人間の同化は、進んだようだった。変化はいったん落ち着いたのかもしれないと思わせる、奇妙な静けさがそこにはあった。



 いや。植物人間と呼ぶのが不適切であることはわかっている。まだ。ましてやこの世界はほんとうは南美川化の産み出した世界だ。現実世界でほんとうに身体が同質になってしまうこととはわけが違うだろうし、だいたいヒューマン・アニマルはいてもヒューマン植物なんて僕は聞いたことがない。 

 でもそれでもそう呼ぶしかない光景だった。

 あまりにも、そういうありさまだった。


 一見しただけだったらむしろ遊戯かと思ったかもしれない。小さな子どもたちのおゆうぎ会かな、と。

 まるで木を被りものにするみたいに、丸く肌色の顔が露出されていて。

 そしてそれとおなじような感じで、万歳するような格好の太い枝からはかろうじて人間のときのままの指が五本、あとは胸からおへそにかけてと、下半身のほんらい隠すべきところ――それらが露出されていたのだ。足は、……見当たらない。

 それ以外は、木のほんらいの茶色で覆い隠されていて。……だからこそ、それらの肌色は余計に際立つ。



 そのありさまは、グロテスクで。

 悪意を、感じる。単純に植物と人間をキメラ合成するというだけでもおそろしいのに、そのうえこんなふうに不自然に露出をさせた格好で、固定する――なんらかの意図を感じるなというほうが、無理な話だった。



 夕暮れの冷たい風は容赦なく彼の素肌を苛んでいることだろう。

 呆然としたように隣に立つミサキさんの白髪が、揺れる。

 僕は、唾を飲み込んで――そのひとに、近づいていった。南美川さんも控えめに、心配そうに、……リードに伴われるまま、ついてきてくれる。



 壮絶な苦悶を思わせる表情。もだえることさえおそらくできずに、目だけを動かしてすがるように見下ろしてくる、その表情――。



「……た、すけて、くれよ……」



 たぶん彼がかろうじて発することのできたのは、その言葉だ。



「くるしいんだ、よ……」

「……苦しいんですか」

「ああ……とけちゃいそうだ……苦しい、あったかい、とける……くるしい……」



 こちらからは植物に同化してしまったということしか、わからない。

 だが。彼にとっては、いまこの瞬間――どんな壮絶なことが起こっているのだろうか。



 ミサキさんも、隣にやってきた。

 そして植物人間の顔を、まっすぐに見上げる。



「あなたは、ひとりじゃない」



 老いをまったく感じさせない、りん、とした声。でも。ひとりじゃないなんて、こんなときにそんな言葉、いったいなんの――役に立つというのだろうか。



「あなたは不幸にも第一号になってしまったね。でも、あなたのあと、小さな子どもたちがまた植物になったよ。……このままでは私たちも時間の問題かもしれない」


 ミサキさん、と僕は思わずその名を呼んでしまった。


「時間の問題ですけど、でも……まだ、諦めるなんて」

「やあだあ、諦めるなんて私ひとことも言ってないでしょう……ねえ、お若いかた?」


 ミサキさんは、微笑んだ。年齢を感じさせない、いや、――年齢にしてみればおかしいほどの、ぞっとする妖しいなまめかしい雰囲気でもってして。


「協力、してもらわなくちゃ」


 ミサキさんはズボンのポケットをさぐると、髪をまとめるゴムと思わしきものを出して、あっというまに髪をひとつしばりにした。そしてなんで持っているのか、薄いゴム手袋を出して装着する。

 僕には、その行動が、まったくもって、理解不能だった。


「……協力って、どういう、あの、なにするつもりなんですか、ミサキさん」

「生物構造を分析するのよ。そうすればなにかがわかるかもしれないでしょう。お若いひと。ねえお若いひと、いまのお若いひとたちときたら、だめねえ。状況に対してなにひとつ対応しようとしない。だれかほかのひとがやってくれるって、ぽかーんってしてるの、それだけ。それならうちの孫とダックスフントのほうがよっぽど賢いわよ、あの子たちにはすくなくとも自主性がある」

「生物構造を分析、って、だってろくに実験器具もないのに――」

「お若いかたの専門はNecoでしょう。でも私の専門は、そうではないの」

「専門、って――じゃあ、ミサキさんの専門は」

「進化生物学の逆行退化現象専攻。ただし、四十手前までね。それからは、どこにでもいるそれなりに裕福な専業主婦。そしていまは、孫とダックスフントの、優しいおばあちゃん」

「四十手前って、どうして」



 りりん、と強く鈴のが響いた。

 南美川さんが大きくなにか反応しているのだ。

 でも僕には、その中身がわからない――ただひたすらに戸惑っていると、髪をひとつしばりにしてゴム手袋をしてだいぶ印象の変わったミサキさんは、それでも、最初に会ったときの印象みたいに、柔らかく笑った。



「あらお若いひと。ご存じないのね。進化生物学は、異端よ。……もっともそれは、私たちを異端としたがわの言いぶんね」

「異端って、それは――」



 よほど、倫理的ではなかったということだ。

 現代社会の基準に、照らし合わせて。人道をまもってない学問や思想は、異端として排除される。



 南美川さんは動き続けているのかりんりんりんりん鈴の音が鳴り続ける。



「異端だなんて、珍しいことではないわよ。とくに、私たちの世代ではね。……ただたしかに私はちょっとやりすぎた」



 ミサキさんは、その微笑みを深める。いよいよやってきた夕暮れの紅の光に、その皺だらけの顔はどこか美しく縁取られて――。



「だから、私は罪人となった。にどと公式で生物学に携われなくされた。配偶者をあてがわれ、罰のように子を産み、育て、そして孫までできたのよ。……だから私はいまはふつうのおばあちゃん、どこにでもいる、孤独でかわいそうなおばあちゃん」



 ミサキさんは、うたうようにしてそう言いきって。



「そして四十歳までは、私は世間でマッドサイエンティストと言われてもっぱらの評判だった。……ええ、ええ、お若いかた。はるかむかしの、ことですけれども」



 その、印象の変わりように。

 なにも言葉が返せない僕に、さらに笑みを深めて――さあっ、とミサキさんはさらなる明るい声を出したのだ。



「さあ、やるわよ。……ここが異次元だったとしたら、こっそり極めてきた進化生物学の腕、生かしたってこれ以上の罪には問われなさそうなもんよね。それにどちらにしろ、専門性をもつ者は非常事態において専門性を生かす、というのはまったき人権をもつ者の、義務ですしね……」



 腕まくりをする、ミサキさんは。もう僕たちのことなんて、見ていないどころか、認識すらしていないんじゃないかと思えるほどの、恐怖を感じるほどの、集中を、ただのギャラリーになるしかない僕にさえ感じさせた――。

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