研究室の新しい日常風景は
わたしは高度専門解析型パソコンを前に、日がないちにちお仕事をする。
白衣を着て。あんまりにも頭を使うからすぐに頭のエネルギーがなくなる感じがして、手を止めては、高機能栄養補給型チョコレートをつまみながら。
とんでもない緊張感のなかで、あの先生の役に立たなきゃ役に立たなきゃいけないって、そんなめぐる気持ちのなかでとにかくひたすら採取した目の前のデータとその解析とその解釈に、向き合う。
わたしがいまやらなきゃいけないのはとくに粘膜系の細胞の解析だ。
幸い人体がひとつまるごと使えるから、採取にはそんなに苦労しない。それ用の人間未満を持ってくる必要もないし、人間牧場に行く手間も省けた。
この実験はそんなにたくさんの人体サンプルを必要とする仕事ではない。一体あれば、こと足りる。先生はたぶんセミプロとして仕事をするのがはじめての、いわばデビュー戦のわたしを気遣って、あえてそういう難易度の仕事を割り振ってくれたんだ、と思う。
でもたくさんの人体を必要としないぶん、ひとつの人体の体系的な把握と解釈が求められる仕事でもある。あれこれと手を出さずともいいし、独創性もまだそんなには期待しないから、とにかく、どこまで細胞に対して真摯に向き合えるか、ってことを先生はわたしに要求しているんだ――たぶん。
いまは口のなかの粘液を中心にやっているけれど、時間軸的にもこの体系的なデータがだいたい出揃ったら、次は生殖器系の採取に移らねばならない。人体を対象にする必要のあるこの分野をやっているといつも思うけれど、やっぱり他人の身体をいじくるというのは、わたしは、そんなに好きではない。ましてや同性のそんなところ――でも生物学のプロフェッショナルというのは当然、そんな甘いことを言っていられないことをわたしはもう知っている。たとえば先生だったなら、目の前の人体が有用なのであれば即座にそのひとの人権を買い取るもしくは金で借り受けて、その場でだって服をめくって皮膚を貫いてその下にあるモノを丸裸にできる、のだろう。
優秀な、それも超優秀な研究者という存在にはそういう精神がつきものなのだ。そういう精神が必要なのだ、ぜったいに。だいたい優秀なほかの先輩や同年代のセミプロだって、いまさら人体を剥ぐことにあれこれどうこう言うひとだなんて、聞いたことはない。そんなのはみんな知らないとでもいったふうに澄ましている。
思えば人体をあれこれどうこうするときにみんながきゃあきゃあ言っていた時代なんて、高校時代が、最後だった。あのころにはわたしも生物学だけをやっていたのではなかった。いろんな、たくさんある科目のなかで、まああのころからわたしにとっていちばん得意ではあったけれど、でもとにかくたくさんのなかのひとつとして、生物学をやっていたのだった。
そんななかで時折実験する授業があった。ときには、人間未満をどっかの施設から借りてきておこなう実験もあった。そんなときに、やっぱりきゃあきゃあ言う女の子たちや、一部男の子もいた。わたしは笑ったんだっけ。そんなに騒ぐことないじゃない。たしかにこれは人体だけど、人間ではないでしょう。シュンで遊ぶのとおんなじようなものよ、って――。
「……わたし、なにをしているんだろう」
じっさいに声に出してつぶやいたことに、つぶやいてから直後気づいた。
わたしは普段そんなにたくさんひとりごとを言うほうではない。仕事中なら、なおさらだ。
といっても、聞かれて気にすることも、困ることもなんにもないけれど。
排水口の前に正座して待機しているままの雪乃が、ちらりとこちらをうかがった気配がした。でもわたしはかまわずに、ただ、ただただ仕事を続けた。
目の前にあるデータは手強い。きちんと採取できているのはわかっている。
けれども体系的にこうして並べてみると、どうにも手強い。そこに存在する意味まではわかる。体系的な特徴も、なんとなくだけれど傾向として掴めてきた。けれども。……解釈が、どうもうまくいかない。そこにある価値は、なに? 先生がこうしてやらせてくださるのだから、ここにはなにかしら決定的な価値があるに決まっている。有用で、有益で、社会貢献性に直結しうる、なにかが。そこをないがしろにしたから、わたしはさっきあんなふうな目で先生に見られてしまったんだ、……がんばりなさいね、と冷たい愛想で怒られてしまったんだ。ああ。なんだろう。なんでだろう。なにが、いけないんだろう。この細胞種体系に価値なんてあるのかしら。わたしには、どうにも、ごく平凡な粘液系の体系にしか見えないわ。密度も……構成要素も……分布も……なにもかも……。
「……わたしは、どうして、生物学を」
自分でもびっくりするくらいの低い声が出て、直後自分でびっくりして、ちょっと恥ずかしくなってしまうほどだった。……わたし、いつも高い声で喋っていたいし、意図したってそんな低い声を出すことってあんまり、ないから。
雪乃がやっぱりこっちをうかがうのがわかった。でも、そこに八つ当たりする気力と余裕さえ、たぶんいまのわたしには、ないの。
……言ってしまったことのほうが本音なのだろう。
わたしは、薄々。自分のことを、どこかで気づいている。
わたしはたいして生物学も再生生物学も細胞のことも好きではない、って。
……ただ。得意だったから。
あの優秀な狩理くんに、純粋なる学生だった時代唯一勝てたものだったから。
褒められたから。狩理くんに。パパとママに。先生に。すごいねって見上げるみたいに言われたから。真ちゃんと化ちゃんに。クラスのみんなに。学校のみんなに――。
だからそれで身を立てることを決めたってだけで、わたしは、たぶんこの分野がたいして好きではないし、興味もない、……そこにある価値を見出す作業は、価値ある仕事というよりは、単純作業としか思えない。もちろん頭ではそこにはとんでもない価値があるとわかっていても、感覚は、そのときめきをどうしてもどうしても受け取ってはくれないの――。
……わたしは、ふと手を止めた。
モニターは、それでも変わらず光を放つ。
ぼんやりとだけどわたしの顔が浮かんでいた。
モニターを見るときに邪魔だから、自慢の長い金髪も研究室ではひとつに結びっぱなしだ。
……最近、あんまり髪のお手入れやスキンケアもがんばれていない。
毎日毎日研究室で白衣でこうして仕事をするなかでは、どうしても優先順位が落ちてしまうし。
それに、なにより。どんなにそういうのをがんばったって、わたしの認めてもらいたいひと、……狩理くんが、最近わたしにぜんぜんそういう興味関心を示さないんじゃ、どうしようもない、って――。
……それくらいならこうしてお仕事がんばって、狩理くんに認められたい。
認められたい。褒められたいの。……がんばったな、すごいな、幸奈、ってわたしのこと褒めてよ。
わたしの生まれつきのとっても優れた美貌を、髪もちょっとだけだけどぼさぼさにしちゃって、目にメイクでも隠しきれないクマをつくっちゃって、マスカラとリップとチークは最近したってほとんど意味がないから研究室で仕事の日はパス、……そんなふうにね、……あんなにかわいいわたしを、……こんなふうにしてしまったこと、狩理くん、……狩理くん、わたし、どこまでがんばれば、あなたはそのことを――わかってくれるの。
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