黑鋼里子の役目

「ねえっ、じゃあ雪乃。わたしいまから朝のデータ取るから、床ぴかぴかに磨いておいてね」

「あっ、はい、わかりました……その……床、磨くときには、雑巾使ってもよろしいでしょうか……」

「アンタいつまで口で掃除させられたこと根に持ってるの? また口で掃除させるわよ?」


 雪乃は、とんでもないと言ってぶるぶるぶると大げさなほどに首を横に振った。ありがたい、ありがたいです……とやっぱりちょっと妙なイントネーションで言いながら、四つん這い同然の格好でよろよろと排水口に置かれたバケツに近寄り、がたがたと震える手で雑巾を絞りはじめた、……わかればいいのよとわたしは、ふん、と鼻を鳴らして、今日の本格的な業務に取りかかる。



 先生に、あんなふうに言われてしまった。いまのわたしは、先生の期待通りにできていないのだ。がんばらないと。がんばらなくっちゃ。だって、そうじゃないと。わたしは。……わたしは。

 存在意義もない。

 ……狩理くんとだって、なんだかしっくりいかなくなるの。



 そのために、わたしは、がんばらなくっちゃいけないんだから――。





 研究室は、高校までの理科室と似たつくりだ。

 理科室みたいな部屋をまるまるひとつ、その研究チームで使っていいということになっているわけで。


 もともとが、長方形でちょっと細長い部屋に。

 いくつも、長方形のテーブルが並べてある。

 ほんとうは邪魔だからどかしてしまいたかったんだけど、このテーブルはやっぱり高校までの理科室のように固定されているようで、模様替えはかなわなかった。


 だから、仕方なくそのまま使っていた。

 教室のいちばん後ろでかつ真ん中、わたしのいつも使う教壇の位置のパソコンデスクからでも真正面からよく見通せるように、そこに――黑鋼里子を、置いている。



 黒鋼里子はいわゆるお誕生日席みたいな感じで、長方形の短い辺にあたる丸椅子の前に座っている。変に暴れたり抜け出すようなことをするなら拘束椅子も考えたのだけれど、案の定というかなんというか、黑鋼里子はたいしてそこに座って仕事をし続けることに反抗の意思をわずかも見せなかったから、なんだかつまんなくなってわたしはあえて拘束を課さないことにしたのだ。


 まあ、ね。

 どっちにしろ、物理的に拘束しなくても。一瞬でも目を離せば、成し遂げられなくなる仕事なのだし、それがわたしにバレたりしたら、どうなるかっていうのもこの子もちょっとは想像できるはずなのだし――。



 黒鋼里子の前にはモニターが据えつけられてある。

 わたしがデータをまとめるのに使うような高度な機能はいらないから、とっても古いモデルの単純作業しかできないアナログパソコンをあてがってある。ほとんど、電卓機能に毛が生えたくらいのことしかできないみたいな、ただそれをモニターで拡張していろいろ使えたり大きな画面で見られるみたいな、それだけのマシン。


 黒鋼里子はだらりと両手を垂らしたまま、虚ろな目でモニターの光をひたすらに見ていた。口ではときおりなにかぶつぶつつぶやいている。



 わたしは隣からひょいっと覗き込んだ。

 その瞬間里子はびくっと肩を震わせる。おおげさね、とわたしは言って肩をすくめた。


 でも里子は脅えながらもモニターから目を離すことはない。

 一瞬でも目を離せば、その仕事が達成できなくなるから。


 モニターにけっこうな速度で次々と自動で表示されていく、いちとゼロの数字は、今朝も今朝とて間違いなく機能しているようだ。



「仕事の調子は、どう? 里子?」

「……順調です……」



 それだけ、返された。

 つまんなくってわたしはまた肩をすくめる。でも、雪乃のようにそれ以上あたったりはしない。雪乃の仕事は、わたしのストレスを発散させることだけど、里子の仕事は、単なる単純作業だから。マシンで代替しておこなってもいいほどの仕事なんだけど、でも一台マシンを買う予算でわたしにはほかにできることがあるしね――ちょっとでも、研究費の使いかたは考えて使わなくっちゃ。



 マシンにも、できること。でもマシンを用意するお金がもったいないから、里子にさせていること。

 それは、その突出した暗記力を用いることで、いちとゼロの数字だけで構成された純粋培養データを、えんえんと記憶させていくこと。



 朝研究室に来たらモニターをつけて、あとは夕方まで、えんえんと記憶させていく。そのとき一瞬でも目を離したら、その日のデータはずれる。その確認と照合は一日の研究の仕上げのときに必要となるから、たとえばいっこでも数字がずれていればそのときにわかってしまう。もちろん、それもわたしが五分でも残業すればすぐに取り返せる仕事量だけれど、でもわたしの五分とこの劣等者の一日と、どちらが価値があるかっていえばもちろん、わたしの五分だ――。



 そのせいか、最近里子はなんだか人間っぽくなくなっちゃった。

 雪乃には、おしゃれをするなと命令しなければいけなかったけれど、里子にはそんな必要もあんまりないみたい。

 あんなにサバサバ系にこだわって染めていたらしい髪の毛だって、単に月単位で手入れしないだけで、そんなにボサボサでバサバサの、やっぱり汚い髪くずだらけになってしまうのね。


 仕事はじめのときとか、仕事終わりのときとか。

 三人並べてみても、なんだかいちばん覇気がなくなっちゃったっていうか、笑わなくなったし悲しそうにも悔しそうにもしないし、ほんと、人間っぽくない。でも、それでいいのかもしれないわね。




 だって機械でもいい仕事をしているのだから。

 これがアンタのほんらいの姿かもね、って思う。




 そもそもが、すさまじい記憶力。

 それを、……それだけを頼りにやってきた、ほんとうはつまんない人間だったんだもん。




 機械にひとしいってわかってよかったじゃない。

 もともとが機械っぽい人間だったんだから、機械のできる労働を、この研究室でさせてもらえて、よかったわね、里子――わたしはアナログで意思機能さえろくに搭載されていない道ばたの労働用ロボットを、たまに気まぐれでぽんと慈しむようにその頭に手を載せるときみたいに、里子のボサボサして汚い頭に、それでも、手を載せてあげたの。……よかったわねえ里子、機械になれて、という褒め言葉も、なんとオプションでつけてあげたわ。

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