人間未満になりたくないわ

「……私はね、けっきょくのところ臆病なのよ」


 ミサキさんは、頭上を、高い空を、――遠くをはるか見上げたまま。


「そりゃあ、私がなりふりかまわず孫をかばえば、……孫は人間としてそのままいれるかもしれないけれど」


 でも――と、続ける。


「人間未満の不必要な孫をかばうおばあさんなんて、……娘夫婦にとって私は不必要な人間になる。……孫は、まだ幼くて人権も充分ではないから、私のことをかばってもらうことも、まだできない。知ってるでしょう、未成年の判断はまだ人間以下の意味しか持たない、……幼い子ならなおさらその意思は効力をもたない、だから――もし、娘夫婦が私を人間未満だと言い出したら、……私は、もしかしたら人間未満になってしまうかもしれない。いままで、もう何十年も、人間として生きてきたのに。いえ。知っているのよ。ほんとうは。――晩年になって人間未満認定をされてしまうことだって、あると」


 ……おそろしいわね。

 ミサキさんは、吐息とも言葉ともつかず、そうつぶやいた。



「……人間未満になりたくないわ」



 ミサキさんの瞳はいつのまにか虚ろで、晴れた青空を映しながら、――たぶんなにも見ていなかった。


「あの仔をね、……ダックスフンドの女の子を前にしていると、なおさら思う。ごめんなさいね。こんなの。あの仔にも、……いろんな存在にも申しわけなくて。でも、思うのよ、……人間未満に、あんな存在になりたくない、って。――私は、いじわるで、わがまま、情けないおばあさんだわ」


 そんなこと、ないです、とか――僕は、もちろん、そう思ったけど、……人間未満になりたくないだなんて当たり前の気持ちだと考えだと思うけど、でも、そんなことも言わせない、……安易な励ましなんて受けつけないと全身で主張しているみたいな、なにかすさまじい迫力のようなものが、やはり、……このひとには、あるのだった。


「人間未満は当たり前だけど人間としての生活はできないのよ」

「……はい」


 それは、知っている、僕も、――南美川さんで、知ったから。


「たとえば物をつかむとかね、二本足で立つとか。言葉をしゃべるとか、好きなところには思い立ったらいつでも行ける、つまりこうやって私が公園に来るみたいにね。……私のようなおばあさんが生きた大昔ならともかく、いまこの時代はね、すくなくとも人間でさえあって、人権さえあれば、たとえ先天的でも後天的でも、身体しんたいの都合でなにか支障を感じていて、そして自らそう望むのであれば、それは、どうとでもなる。技術は、すごく進歩したものよね……たとえば、ねえ、身体に身体の個性があって二本足で歩くのが難しかったけど、でもやっぱり二本足で歩いてみたいなって思ったなら、福祉の力でいくらでも身体を調整して、すこやかに人間として生きられる。そうでしょう? ……もちろん、個性として車いすや杖を使い続ける選択肢だって、自由、けっして強制されない。……私の子どものころには考えられなかった常識だけど」


 なんとなく、これからミサキさんの言おうとすることがわかるかもしれない、

 でも、……人間未満は、逆なんだ。


「……人犬にされたら、人間として当たり前の自由が、ぜんぶ奪われる。

 寝起きする時間、ごはん、自由時間、……おトイレのことまでね、ぜんぶ、人間の、……他者の都合で決められる……それに、――お世話にならなきゃ生きていけない」



 ……知っている。僕は、そのことも、よく。

 そして、……それは、たぶん、震えるほどのことだ。

 心も、身体も、……震えずにはいられないほどの、そんな――絶望的なことなんだ。




 ……怠惰で停滞していた、ふたりきりのあの暮らしのことを思い出す。

 南美川さんは、自分でやろうとしていた。




 洋服を口でくわえて、自分で着てでも、自分でやろうとしていた――でもそれはけっきょくのところ、満足にはできないのだった。




 人間未満になってしまえば、人間として当たり前のことは、自由は、……すべて当たり前ではなくなって、他者に依存せざるをえなくなるのだった。

 不自由すぎる身体も、徹底的に管理される生活も、存在しない人権も。すべて、すべて、――絶望したってなんだって目の前にいる人間に他者に頼らねばいけないのが、人犬という存在だ、……僕だって南美川さんでそのことをよく知った……。

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