詰問

「それで、姉ちゃん、なんの用……」

「なんの用、じゃないよ。母さん心配してたよアンタ」


 姉ちゃんはキッとこちらを睨んだ。

 しまった。南美川さんを撫でることで多少ご機嫌っぽいところにさりげなく入れ込もうとしたのだが、そんな姑息な手段はやはりこの姉には通用しない。海のほうならともかくとしても。


 南美川さんを撫でるのをやめ、姉ちゃんはこっちに向きなおった。

 おそらく間違えてはないはずなのにどこかちぐはぐな印象のメイク、僕のぎこちなさをそのまま異性にしたような顔、ちょっと濃すぎるんじゃないかっていう口紅の口を大きく開けて――姉は、不出来な弟に語りかけはじめる。



「入院したの?」



「……え?」


 一瞬、なんのことだかよくわからなかった。でもすぐに、……ああ、と思い当たる。なんのことはない、――南美川さんの実家から這い出すように逃げ出して、しばらく療養していたあの入院期間のことだ。


「あ、うん、まあ、いちおうは……」

「いちおうってなに、いちおうって! いちおう、で社会人が入院するんですか?」


 しません、と僕はうつむいてつぶやくみたいに返事をした。まるで不機嫌な幼い男の子のように。幼いころから、ずっと変わらぬこんな態度で……。


「そういえばそうだったから、いつか言おうと思って……でも僕も家族に心配をかけたくなくて……」

「心配をかけたくなかった? めんどくさい、の間違いじゃないの?」


 僕はまた押し黙った、――さすがに、この姉は、騙せない。

 だからこそ、姉ちゃんは、細く長すぎる形の右眉を吊り上げた。――姉ちゃんがもっと若いころ、化粧なんてしてなかったから眉毛がもっと太くてボサボサだったころから変わっていない、変わることはないのだろう、僕の言葉を聞くとこのひとはいつも――はあ? とでも言わんがばかりに、右の眉毛を吊り上げるのだ。

 ……海に対しては、そんな顔しないくせに。



 僕がなにも言わないということをまたしても察知したのだろうか。姉ちゃんは深刻そうなため息をついた。



「……べつにね、春。あたしは、アンタがどこでどう暮らしてようが、興味ない。立派にひとりの社会人やってんだったら、実家にろくに帰ってこなかろうが、急にペット飼いはじめてようが、家を悲惨に散らかしてようが、文句は言わないよ。

 けどね。家族には、心配させんなよ。母さん、ずっとアンタから連絡が来るからって待ってたんだよ。春は、ああいう不器用な子だけど、必要な連絡はかならず家族にする子だから、母さんそう育てたんだから、って……毎晩ね、笑ってあたしにそう言うんだよ。無理してる、ってすぐわかる。アンタだってわかるでしょうよ母さんのあの儚げな笑顔。

 あたし、聞いてらんなかったよ。このバカ弟、って思ってたよ。親不孝者め。いつまで経っても入院したこともなんも家族に言いやしない」


 うつむいたまま僕は醒めている、ああこういうところが僕は駄目なんだとわかっているけど、それでもなお、醒め続けてる、――僕とよく似た姉がもつ温度と、僕はけっして持ち得なかった、そういうたぐいのもの。……あたたかく、どちらかといえば湿り気を帯びた、肉親というものに対する人間としての最低限の情とか親愛とか、なんかそういう、……そういうもの……。



 姉ちゃんはまたしても重たくて巨大なため息をついた。



「……アンタねえ。入院だけじゃないでしょう。家族に、なにか隠してんでしょう。言いなさい。――仕事だって急に行かなくなって」

「……あ、そういうのも、家族に連絡いくんですか……」

「実家を晴れて出られて悠々自適なひとり暮らしって思ってるかもしれないけど、アンタはどうしても成人してから年数が浅い。妹よりも浅いんだからね。成人後数年は未成年時代の保護者に連帯通知れんたいつうちの制度があるなんてあたしでも知ってる社会常識だけど?」


 ……だれでも知ってるような社会常識さえ知らない弟で、ああ、そうですね、すみませんね……。勝手にそう思い、僕は勝手に、また拗ねる。何歳だよ。子どもか。――情けない。


 それに。その通りだ。僕の成人申請が社会的に通ったのは、大学を卒業する年、就職が決まってはじめてのことだった――どうしても、引きこもりの前科と社会的負債はデカい。僕の成人申請にかんしては、……社会も慎重にならざるをえない。そんな状況だった。わかっていた。――痛いほどに。


 ……あの甘えんぼにしか見えなかった海と比べてさえ、大違いだ。

 まるまる二年間遅れた僕が四年生になって就活をしていた年、海は三年制の大学の卒業を控えた三年生だった。

 家族全員が驚かされたことだが、海は高校卒業後ストレートに、しかも専門性のある程度確保された大学のコースに入学した。専門性の尖りゆえに定員も少なく、そこで三年間しっかりと学べば、派手ではなくてもこの後の人生を人間としてかならず堅実に生きられる――そういうところを選んで、入学したのだ。

 ……僕の専門性とも多少被っていた分野だったから、海がそこに合格して進学して、そのスキルを習得すると知ったときは、少なからず驚いた。


 海の就職はそのコースの修了見込みが立った時点で、決定したも同然だった。だから、海は大学三年になった瞬間の四月に、成人申請をして、五月には通った。……僕は就職を決めた九月に申請して、通ったのは翌年の三月――つまりギリギリだったから、……かなりの違い。



 僕は、三歳下の妹にさえ、おとなになることにかんして、先を越されたのだ。

 わかっている。……僕はたぶん、家族が思っている以上に、そんなことはわかっている。だから――実家にだって、あまり寄りつきたくはないというのに。



「……アンタがなにをぐるぐる勝手に考えてるのか知らないけどねえ」



 一気に盛り上がった姉の声のトーンになにか剣呑を感じたのか、隅っこのほうで伏せをして犬らしく待機していた南美川さんが、はっとしたように顔を上げた。



「なによアンタ、仕事辞めんの? 一年目なのに長期休暇なんか取って。入院して、仕事辞めてって、どういうこと? アンタを拾ってくれた企業なんてありがたいにも程があるのに。――なに考えてんのよアンタ?」



 ……僕が、なにを考えているか、か。はは、……それは僕がいちばん知りたいんだよね姉ちゃんじつはね、なんてね、……言えるはずもない、それに、そういうことじゃないってことなど重々承知でわかっているけど――。

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