朝の歯磨き(3)歯磨きの順番
南美川さんの、上の左の奥歯のあたりは磨き終えた。ちょっとずつ、ちょっとずつ、……上の前歯へ歯磨きは行こうしていく。
そういえば、僕は。
歯磨きは一方通行で進める、ということをいつ覚えたのだろうか。
物心ついたら僕は自分で歯ブラシを握って自分自身の歯を磨いていた。さすがに赤ちゃんのときには母さんに磨いてもらってたんだろうけど、そのときの記憶は残っていない。
すくなくとも幼稚園に上がったころには、僕はいつも歯を磨きなさいと言われて素直に静かに歯を自分で磨いていた。小さなころの記憶なんて曖昧だけど、そのときにずっと水色と青い水玉模様の柔らかいパジャマを着せられていたことはよく覚えていて、そしてなぜか僕はいつも洗面台とリビングを分ける扉のそばに突っ立って直立不動で歯を磨いていて、……パジャマの袖のくすんだ水色がやたらと揺れることを、それだけは沈黙した映像のようによく覚えている。
それとおなじくらい、いやもしかしたらずっと鮮明に覚えているのが、母さんに歯を磨いてもらっている海のことだ。
海と僕は、三つ違い。つまり僕が三歳のときに生まれたわけだし、四歳のときに一歳、五歳のときでもまだ、二歳……。
広い部屋で、家族五人がいるところで、僕だって当然家族の一員なんだからもっと堂々とリビングのど真ん中にいたってだれも怒りはしなかったはずなのに、僕はなぜかいつもそんな隅っこで、全員に距離を取ったところでぼんやりと歯を磨いていたような気がする。
……俯瞰する、だなんてえらそうな言いかたがもし許されればなんだけど、
僕はたしかに、俯瞰的に――いつも、夜の歯磨きタイムに自分の家族を眺めていた。
どこかモニター越しの映像のように。
そのときじっさいに近くにいる自分の家族なのに、まるで、遠いところでのできごとかのように。
海は、いつでも大声で泣いていた。
自分が生まれてきたことが理不尽なんだと叫ぶかのように。
それはそれは パワフルな泣き声だった。防音効果も
それほど、パワフルな泣き声で、……たしかに近所迷惑の可能性も多少はあったのだろうけど、でも防音効果だってあるし家々は距離を取って建てられている相対偏差五十五以上の住宅街だったからそこまでダイレクトに響いてはいなかったはずなんだ、
……じっさい、やられていたのは、僕や姉ちゃんのほうだったと思う。
あるいは――あのときにはわからなかったけれど、母さんや父さんだって。
それでも姉ちゃんはおとなだった。いや、あのときにはよく考えればまだほんの小学生の低学年や中学年に過ぎなかった。
けれどもそんな幼い年齢で、姉ちゃんはやっぱりそのときからおとなだったのだ。
いつも洗面台の真ん前に台を置いておとなとおなじ目線で鏡が見れるようにして、自分の歯磨きを適切に丁寧にさっと済まし、うがいを簡潔におこなって、海をあやしにかかった。
……海は、僕にはちっとも懐かなかったくせに、姉ちゃんが来るときゃっきゃとはしゃいだのだ。
姉ちゃんは姉ちゃんで、あのときからもうすでに感情の起伏も少なくてぶっきらぼうな性格だったけど――海をあやしにかかるときには、不器用そうにちょっと恥ずかしそうながらもお姉さん顔してべろべろばあ、とかしていたし、海がきゃっきゃっきゃっとはしゃぐと困ったように、どうしていいかわからなそうに笑った、……でも、あの笑顔は振り返って思えば喜びの微笑みでもあったんだと思う、
ひとを、だれかを、……小さなものを、守る。そんな笑顔。
いまどき性別論なんかオールディだよって言われてしまいそうだけど、……やっぱり、女の子だったからって思ってしまう僕は、それだけでもう責任を性別なんていう先天的なものに放り投げてしまっている、のだろうか。
家族の、風景。
家族風景。
そういうのを、僕はずっと、遠巻きに見ていた。
……遠くのものに、思えて。どうにもあの家族に参加しようと、思えなかった。
……僕の、家族なのに……。
そして、べつに仲間外れにされているわけでも、ないのに。けっして。
その証拠に母さんは姉ちゃんにすまなそうな疲れた笑顔で海を預けるとかならず僕のほうにやってきてくれたのだ、
まだ小さな背丈で直立不動で歯を磨いている僕の前に、……視線を合わせてそっとひざまずいてくれて。
子どもの前なのに、ちょっと困ったように所在なさげに笑う顔は、……たしかに、姉ちゃんそっくりだと当時でさえも薄ぼんやりと感じていた。
『……春。ちゃんと、磨く歯の順番を決めて一方通行で磨いてる?』
僕は歯ブラシを頬に過剰に突っ込んで小動物みたいに片頬を膨らませたまま、ふるふると首を横に振った。
『だめよ。いつも、ちゃんと順番決めて磨きなって言ってるでしょ?』
僕はまたしても、おなじ動作でふるふるふると首を横に振った。……めんどくさかったのだ。
『順番決めて磨かないと、虫歯になるよ』
僕はちょっとのあいだ、考え込んだ。それはそれは、……子どもながらに、真剣に。
そして歯ブラシをガシッといったん口から離すと、
『……ならないよ。だって、いままでなったこと、ないもん。ぼく』
『虫歯になって、イタイイタイーって言って、おいしいものが食べれなくなってからじゃ、遅いのよ?』
母さんは歌うようにそう言いながら、流れるような動作でボックスティッシュから何枚かのティッシュを取り出して僕の口を拭いた。
気づかなかったけど、……長く磨きすぎていたせいで、僕の口からはみごとによだれが出てきてしまっていたのだ。
――そういえばそのときいちどだけ母さんに尋ねたことはいまでもよく覚えている、
『……ぼくも、うみみたいに、あんなうるさくないてたの』
母さんは、またしても困ったようにちょっと笑った。――子どもに向けてたいつもの笑顔。
『……春、あんたはね、うるさく泣いてくれないから母さんたち参ってたのよ。
おなかがすいた、おしめを替えて。……そういうのを主張してくんなかったからさ。
まあたしかに海は元気ね――でも、春よりはわかりやすいってところでは、手はかかんなかったかな?』
……振り返れば、
どうして母さんは、あんな話をまだせいぜいが幼稚園児だった年齢の僕に、したのだろう。
理解できるわけ、なかったじゃないか。そんなの。
そんな論理は、ぜんぜん。
だって僕があのとき感じたことといえば――そうか僕はうるさくはなかったのか、よかった、――あんなんじゃなくて、っていう、ただ……それだけのことだったのだ。
僕が、ちゃんと教わって覚えていたことといえば、歯磨きは順番を決めて磨かないと磨き残しができるのだ、ってことくらいで――
……僕は、そう教わった通り、こんどは違うひとの歯を磨いてあげている。
あのとき、母さんや姉ちゃんが、海にそうしてあげていたみたいに。
教わっていた、から。
このひとの歯も順番に磨いてあげて、磨き残しもなるべくないようにしてあげられる――。
「……南美川さんはさ」
んん? と尋ねるような音がこのひとの喉の奥から漏れた、――それで僕はちゃんと現実を鮮明に思い出す、このひとはいま口を僕に対して大きく開いてそのままなんだから、……まともにしゃべれる状態ではないんだ、僕はいったいいまなにを尋ねようとしていたのか、ああ、――もの想いが多くてこのごろ困る、
南美川さんは、歯磨きの順番とかいつどうやって教わったの? あの家庭にいて、あの家族にそういうのをどうやって教わったの? だなんて――無意識であっても、そんなことはいまけっして尋ねてはいけないはず。なのに僕はいま、そんなことをふっと口にしそうになっていたんだ、それもまた、事実だったんだ――。
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