心臓が、鳴る

 病棟の、静かな廊下。朝だからなのか、ひとの気配はほとんどない。



 ただ、病棟のコアステーションにはひとりのひとが座っていた。朝のこの時間帯でも待機しているのであろう女性の看護師さんは、ぺこっと小さく頭を下げてきただけ。標準時間外ひょうじゅんじかんがいの勤務。若そうなひとだったけど、さぞかし収入も社会評価ポイントも稼いでいるのだろう。


 現代では当然、勤務の標準時間というものが定められていて、たいていのひとはその時間内でのみ働いて、時間外は完全にプライベートだ。けどそれはつまり、標準時間内だけ働けばよいという安定を代償として、望めばそのぶん標準時間外手当がついて、たくさん稼げるということでもある。とくに、病院勤務なんていうのは、……社会評価ポイントが、とっても望める仕事のはずだ。



 ……なんて、いきなり仕事のときみたいに頭を回しはじめる僕が、なんだか僕は、すごく嫌だった。

 社会人……社会人ぶったこと、考えて。もう、僕はいますでに、――会社員じゃないかもしれないというのに。



 橘さんのあとについて歩いていったのは、たった三部屋ぶん。

 時間にすれば、十秒とか、そんなところだろう。



 朝礼前や終礼前、僕はいつでも橘さんのあとについて歩いていた。いまみたいに。


 でも、いまと会社のときは、いろんなことが違った。

 周りにも、ひとがいた。あのときには、オフィスカジュアルとはいえ、こんなよれよれの心もとない病院着ではなくて、いちおうはしっかりとした勤務用の服装だった。……杉田先輩も、いっしょだった。




 それに、橘さんは、ストライプの入ったスーツの背中ばかり見せて、……こちらを振り向くことはなかった。会社のときには、頻繁に振り向いていたというのに――。




 僕は頬に手を当ててみた。

 案の定、とてもざらっとした、いったい僕はどれだけ眠っていたのだろう、




 せめて、この上司と会うときくらいは――ひげくらい、ちゃんと剃っておきたかったのだけど。ああ……。






 面談室は、シンプルな部屋だった。黄緑色のカーペットに、ブラウンのテーブル、白いソファの背もたれ部分のあるチェア。広めの窓からは、青空が覗く。

 手狭ではあるけど、二人という人数でしゃべるにはちょうどよさそうだ。



 青空は覗くけど、

 橘さんは、ブラインドカーテンを閉めた。


 そしてパチリと部屋の白い蛍光灯をわざわざつけて、着席すると、僕にも「座って」と促した。

 僕はぺこりと頭を下げると、橘さんの正面の席に座る。





 ……さて、来栖くん、と橘さんは紅い唇を開いた。






「私は、あなたに、とても非人道的な結論を述べねばいけません」





 はっ、と僕は橘さんの顔を見据えた。

 橘さんは、あくまでも静かな表情をしていた。




 ――聞きたくない。いや。でも。聴かねば。

 ドッドッドッ、とすでに心臓が脈打って、うるさい。うるさい、とてもうるさい。

 ああ、覚えのある感覚。ドッドッドッ、ってするんだ。うるさい、うるさくて、そうだ、いじめられていたとき、いじめられはじめてから、僕の心臓は、心臓も、……まるで壊れてしまったようで、うるさいんだ、ほんとうに、もっと静かに脈打ってくれればいいのに、ああ、こんなにもうるさい、うるさく聞こえる、その壊れようといったら、引きこもりの時代まで続いた、そのあと大学に入って、プログラミングにだけ没頭してたら、ちょっとだけ、落ち着いてきて、……さいきんでは変な傷の残滓の夢を見てしまうとき以外では、そんなに、壊れなかったのに、僕の心臓、ああ、ああ、違うんだ、だから僕は、治ったのではない、……まともになったのでは、なれたのでは、なくて、





 ほんとうは、いまだってちゃんと、僕は壊れてしまっているのかもしれない、……そう、……ちゃんと。





「あまりにも、非人道的。職務上の義憤とともに、私は、個人レベルでのエモーショナルな怒りさえも、感じます。

 来栖くんに対して、あんまりにもむごい結論だった。上のやることは、私には到底、理解できない。でも、……上の判断の根拠ということならば、理屈としては、わかります。……それにしても、残念すぎる結果でしたけど」



 はは、判断の根拠、か、……無断欠勤とかのこと、かな。そうだよな。それは、そうだ。無断も無断、いまこの期に及んでだって、いったい何日無断で会社に行かなかったのやらわからないくらいなのだから。当たり前だ、当たり前、……僕はもう、戻れなくって当たり前。



「……だから、来栖くん。覚悟して、聴いてください。

 私だって、こんな結論を、ほんとはあなたに伝えたくない」



 ふるり、とその紅い唇が、一瞬振動したように思えた。

 ああ。そうか。橘さんは、きっと僕のことを、……ほんのわずかのちょびっとでも、たとえ微生物のつま先程度でも、僕のことを、……惜しんでくれているのかもしれない。





 そう、思えば、……自然に素直な声が、出たのだ。





「……はい」





 それは社会人としてみれば、すこしばかり、湿り気が多すぎる返事だったけど――。







 ……もう、いい。いいのだ。

 それは、投げやりな諦めでは、ない。








 最初から、僕は。

 それも、覚悟で。

 あの家庭に、乗り込んだ。



 うしなうものは、ないと思ってたけど、……じつはあった。

 でも、いいや、いいんだ、僕は、僕は、……南美川さんの温度を知った、気持ちの温度も、からだの温度も、……あのひとのすべてのぬくもりを、






 だから、僕だってすべてをうしなうならば、そうだ、南美川さんとこんどこそ、おんなじになるだけなんだよ――。






「……わかりました。来栖くん、では、述べます」

「……はい」

「あなたは、」






 橘さんが、ごくりと生唾を飲んだ気配がした。……ちょっとだけ、苦しそうに見えて、

 そう、……苦しそうに、結論を、重々しく、言う、言葉を区切って言い切ってくる、







「あなたの、来年度の有給休暇は、五日間が上限に規定されることになると、思います」

「……え?」




 ……え?




 ……ん、っと。……え?

 いま、なんて?






 ……有給休暇、って言った? まさか、でも。そんなことは。だって、それって、いまも会社に所属しているひとの権利のことを、指すんだろう――?

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