狩理くん(3)たまらない
「……そう、だよな」
狩理くんは唇をゆがめて笑った。これは、狩理くんが、――納得したいんだけどそうしきれないときの、癖だった。
「俺は結果的に幸奈を見捨てたんだ。犬になってもいいって思ったんだ。そうすれば、……ちょっとはすっきりすると思ったんだ」
「そう、でしょう? 狩理くん、そうだったのよ、あなたは、そう……」
狩理くんはむっつりと黙り込んだ。
わたしも、おんなじように沈み込むように黙り込む。
……たしかにわたしたちは愛しい恋人どうしであったはずなのに。
そして、小学校からずっとおなじ学校に通って、いっしょになんどもなんどもその歳相応のちょっと無茶な遊びを繰り返して、
それはむかしむかしの海の向こうの言葉を借りるならアバンチュール、
もしかしたらきょうだいよりもずっと打ち解けた、友達みたいな家族みたいな、
お互いに唯一無二の、
幼なじみでもあったはず、なのに――。
……どうして、いま、こうして柵のそととなかで、こんなにも隔たれて。
わたしは、惨めな犬で。
狩理くんは、孤独なのだろうか――。
「……なあ。御宅さ、そいつのことがマジで好きなわけ?」
「そいつとか、言わないで、シュンよ、シュン、あなたの同級生でもあるんでしょう……」
「ああ、そうだな。おかげで俺の制服はボロボロだけど。あんなんもう雑巾にも使えねえな、……せっかくパリッとアイロンかけたままで取っといたのに、まーさかこんなことに使われるとはねえ」
狩理くんは肩をすくめた。
……べつに高校時代にとくだんの思い入れがあったわけではないだろう、狩理くんは。
小学校も、中学校も、高校も、国立学府も。狩理くんは反抗したりとか揉めごとを起こしたりとかはいっさいしなかったし、とくに気に入らないということもないようだった、ただどこの場にいたって狩理くんはいつも、控えめで、ひそやかで、怠そうで、うつむいていた。……どうでもよかったんだと思う。狩理くんにとっては。
ただ――銀縁眼鏡の似合う吊り目のカッコいいルックスではあったし、なんでもできて成績も相対的優秀者なのに、それでもどこか陰を背負ったところがいまどきイイ、と狩理くんに好感をもつ女の子はどこでも多かった。
そのうえで狩理くんはきっぱりと俺には幸奈がいるからと断り、どんな魅力的な子にもいっさいなびくことはなかったので、最初は狩理くんを疎ましく思っていた男の子たちはそのことがわかるうちに次第に狩理くんを仲間に引き入れたがるのだ。おい、おまえ、彼女ラブなんてうらやましいなー、クラスの子もう何人振ったよ? つーか別クラスも後輩も、先輩まで? みたいに――狩理くんは五月くらいになるといつも肩を抱かれていた。
狩理くんは、けっしてそこで否定をしない。遠ざけもしない。いっしょになって迎合しているかのように笑う。
けれども、わたしは狩理くんの婚約者だったから知っている、彼は学校ではみんなとおなじ程度にサッサッと手洗いやうがいを済ましていた、たとえば泥とか汗とかの若い男の子にありがちな適度な不潔さを彼も周囲に合わせてもっていた、だれかにさわられることを拒むこともなかった、
けど、けどわたしだけは知っている――狩理くんが帰宅してまずするのは、あー、汚れた、とか言って風呂場に直行し、手の腕や脚を入念に洗うことだ。ほんとうは全身を洗ってしまいたかったのだろう。ときどき後ろからわたしも覗いたけど、ちょっと異常なほどに擦っていた。水をじゃばじゃばかけて、硬めのスポンジでいつも肌が赤くなって剥がれてくるまで洗ったりする。スポンジの硬さはわたしたちの年齢や成長段階とともにだんだん過激になってゆき、やがてはたわしにいきついた。お風呂掃除用のたわしにまでいったときは、さすがにわたしは止めようとしたけれども。
不可解だった。当時は。なんでそんな痛いことするんだろう、って。汚れてるって言うけどそんなに汚れてないよ、とわたしは言い続けたんだけど……。
いまなら、ね。手とかくるぶしとかの見えるところにはけっしてそうしなかったから、あれは、……狩理くんなりに自分を傷つけていたのだろうと、いまならわかるんだけど。
狩理くんが、南美川家でお風呂に入ることは不可能だと当然わたしも知っていた。狩理くんはあくまでも自宅という名のうさぎ小屋みたいなアパートの部屋で、生活をおこなってくことを要求されている。
それなのに狩理くんは帰宅する前に南美川家に寄って、夕ご飯をいっしょに食べなければいけない。遠慮しながら。気を遣いながら。これでもかってほどに媚びながら。
だから狩理くんはきっと夜の九時近くなってあの狭いアパートに帰って、そこでやっとちゃんとお風呂に入ってた、そのときには、そのときには、――きっと南美川家のぶんもとことん洗い流していたのだろうな、と。
そんなのが、狩理くんが五歳のときからきっといまに至るまで、ずっとずっとえんえんとはてしなく終わりなきものかのように、続いていて。
……彼にとっては、世のなかのほとんどのことは、不潔だったに違いない。
そんななかでも。
わたしには。
ふれて、くれたのよね。
だいじに、……してくれたのよね。すくなくとも、あのときには――。
わたしは気がついたらぽそりと言ってた、
「……義務感、だったのかな」
「え、なにが」
「だから。狩理くんがわたしのことを、いっときでも、……好きとか、愛してるとか、そういうのって狩理くんの義務感だったんでしょう? わたしが南美川家のお嬢さまだったから――」
「……それも、あるけど、それだけじゃ、ねえよ」
狩理くんはほんとうに苦しそうに、うめくようにしてそう吐き出した。
隔てる檻を、……狩理くんは人間だから乗り越えて入ってこられるだろうに、そうしないで、
なぜか――檻の格子を、両手でぎゅっと握りしめる。
……まるで、とらえられてるのは、狩理くんのほうであるみたいに。
「好きだったから。ああいうことだってしたんだろ」
「ああいうこと……?」
「ほら、……高校んときの夏休みとかさあ……」
「――ああ、」
狩理くんと――おませなセックスをしようとしたときのこと、かな。
「幸奈さ、計画段階のときにはさ、あんなに乗り気でノリノリで、わたし実質処女かどうか怪しいもーん、ぜったいキモチイーって、まかせといてよねっ、とか言いながらさ、……じっさいやろうとしてみっとビビりにビビってやんの。ちょっと先っぽ入れようとしただけでぎゃあぎゃあ言ってさあ――」
「ちょ、っと、……やめて、シュンに聞こえてるかもしれないでしょ……」
わたしは、……赤くなる、たしかにわたしはそうやって変に背伸びしようとしてたから――。
「……たまらねえよ。幸奈」
狩理くんは、囚人が懺悔するときみたいにすっかりうつむいていた。
「おまえは、ほんとうにたまらない。俺は幸奈のことが大好きでまぶしくて憎くって。かわいいけど頭が弱くてきゃんきゃん吠えるちっちゃな愛玩犬みたいだなってずっと思ってたさ。
やがては俺はこんな頭からっぽな能天気な女の子と結婚すんだろ。俺はもうほんとうは、……人権もなかったけど。でも、でも、……幸奈が嫁になる、って思った。
だから、がんばったさ。なにもかも。勉強だって。……優秀な親をもつ幸奈になんかぜったい負けねえ、って。
幸奈よりもうえに。幸奈よりもうえにって。……だって俺たち結婚する予定だっただろう、なあ?」
わたしは、こくりとうなずいた、……最後の言葉には。
「……いつから幸奈が低くなることを望みはじめちゃったんだろうなあ」
狩理くんの声は、涙のように湿っていた。――たまらなく。
「俺は、俺はほんとうに幸奈がうらやましくて憎かったけど、俺、……おまえがじっさいに人犬になったとこ見たら、さ……。
おまえは、知らないだろうけど、施設に引き渡す前に、ちらっと、――見たんだけど」
「……え、そうだったの?」
そうなんだ――それは、知らなかったわよ。
「そのときに俺は全力で幸奈をかっさらうことだってできたかもしれない。そうじゃなきゃ、俺が金で買い取ってやればよかったんだ。……それだけの金はあのときにだってあったさ。バイトとか、あともう研究所の給料ももらいはじめてたし。
でも、そうできなかったな。真ちゃんや化くんや、親父さんやお母さんがいたのも、あるけど。
……泣きじゃくるおまえは俺の手に余ると思ってしまったなあ。しかも、人犬で」
……うん。そうよ。あのときはじめて首輪で引っ張られて――どれだけ、どれだけの思いをわたしがしたと思っているの。
「俺も、あれに加担したんだ、って」
……つまりわたしを人犬にした、ことに。
「とんでもねえことしちゃったな、って。……たまらなかった。俺は」
……うん。
「でも、どうしようもなかったんだよ」
……そう。そうなのね。
「俺のなかにはけっきょく犯罪者の血が流れているんだ」
狩理くんは、ガンとおでこを格子にぶつけた。
そのまま、……力なくうなだれる。
「……加害することしか、できなくて……」
そうかな、それは、……そうなのかな、狩理くん、
わたしも、ううんわたしのほうがひとをいじめたよ、犯罪者とおなじくらいに、いじめたからこうなって、
でも、でも、――いじめたけれど、
「……ゆるさないでくれ。俺を一生な。幸奈」
……そんなふうに言われてしまっては、
「俺はしょせん、犯罪者の息子でしかないんだよ」
……もう、いいよ。いいのよ狩理くんって、
わたし、言えなくなっちゃうじゃない、ああ、このひとは、このひとはね――
絶望的なほど、不器用なんだ。そういうとこ、……変わってない。
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