トイレの管理(2)本能のまま
わたし……悲しくって、悲しくって……。
これから訪れるわたしのとっても屈辱的な苦難のひととき――でも、それは、避けては通れない。
わかる、わかるのよ……わたしは、犬だからね、犬であること……調教施設で、慣れちゃったんだからさ……。
……ひどいよ……。
「……うう、う」
だめだった、まだ、なにもはじまってないのに、これからのこと、思うだけで、
調教施設でのひどすぎたいろいろも思い出して、
涙が……勝手に、溢れてしまうの……涙腺が壊れてしまったみたいね。
ああ、……泣くこと、
シュンのほっぺた、舐めてるうちは、がんばって我慢してたのになあ……。
「あははっ。どうしたのよう、泣いちゃってまちゅねー、お顔べちょべちょですねー、……そんなに泣くほど、ギリギリまで我慢しちゃってたのうう? あははっ。わー、幸奈ちゃんはあ、えらいでちゅねえ。おちっこ我慢できるんでちゅねえええ」
……また、わたしの名前、ちゃんづけでゆった……。
わたし、わたし、お姉ちゃんなのよ、あなたの、……真ちゃんのお姉ちゃんなのよ、
もう過去形だったかもしれない、でも……でも……わたしはあなたのこと、ずっと、ちょっと本音は見えなくたってやっぱりかわいい妹だと思ってたの……ずっと、ずっとよ、――わたしがこの家族に見放されてもあなたはなにも言わなかった、それをわたしは、……妹っていう立場ゆえになにも言えなかっただけだったのかなって、加工されたあとでもずっとそう、思っていたのに……。
「でもお、もう、あたしが来たからあ、いいんでちゅよー。
あのねえ、いいこと、教えてあげよっか。……ねええ」
その、妙にあやすような声色に――わたしは、びくっ、とした。……耳もこれでもかってほど直立する。
「わんこはねえ、なんにもねえ、我慢しないんでちゅよお。……我慢しなくっていいんだよおお?
だって――犬は、動物だもん」
真ちゃんは、ニコニコ、している。
「人間みたいな理性とか、なーんにも、期待してないの。……お腹が空いたら、エサをがっついて。眠たくなったら、いつでもどこでもおねんねして。トイレしたくなったら、どこでも垂れ流しちゃうの。……もちろんあたしたちはしつけをするよ? エサのときには、まて、するし。眠ってても邪魔だったらハウスって命令するし。おトイレだって……しつけを、するよ?
でも、ね。わんこだから――本能のままになっちゃうのは、それは、しょおおおおがないじゃんっ。
だから、ね。――幸奈ちゃんもこのままね、垂れ流していいんだよっ」
真ちゃんは両手を後ろ手にして、ぴょこんと、……跳ねた。
やっぱり、かわいらしい女の子の仕草で……まるでわたしの妹だったころと、まったくおなじかのような仕草で……。
真ちゃんはそのままの笑顔で、……キィ、と柵を、開けた。そして、その木製の柵のひっかけるカギをまた、閉じて。
やけに、静かな動作だった。――静かにわたしの目の前にやってきた。
子どものときからずっとかわいがっていた妹を、わたしは、見上げる。
はるか高みにその顔がある。わたしは、いまのわたしは、――五歳も下の妹の腰までの身の丈も、ない。
犬は、――こうやって人間を見上げる生き物なの、いやだ、――認めたくないよ……やっぱり……。
……でも、どんどん、おなかの下のあたりのむずむず、つよくなってきてるの、いや、いやだよ、……真ちゃんどっか行ってよ、やだ、やだよお――もちろんそれがあなたの狙い、なのよね、わかってる、……わかってるよ……
……ひどい……。
「……う、ううっ、ううう……」
それでもせめてと声を押し殺して泣くわたしを、真ちゃんは、その小柄で華奢な身体で、ひょーい、と持ち上げた。
「わー、幸奈ちゃん、かっるいねえー。うふふ、わんこって軽いのねー!」
「……や、やあ、やだ、おろして、おろしてえ、やだ、やだっ、真ちゃんやだっ、」
「――あのねえあたしにもむかしにお姉さんがいてねえ? ……幸奈ちゃんにそっくりだったなー」
なに、を、言い出すの、……それだけ思ってわたしは尿意と悲しみで無駄なのに手足をじたばたさせちゃって、
「……ごさいっ。五歳ね、違ったの。あたしが、下だよ。
だから、成長してからはいいんだけど――ちっちゃなころが地獄だったなあ」
……え、じご、く……?
「どおおおおっしてもさあ、赤ちゃんのころとかあ、ちっちゃいころってえ、人間でもおトイレちゃんとできなかったりするのよねええ、……おもらししちゃったりってよくあるのう。
したくないのに、よ? ――ましてやあたしと化は頭の発達だってすうごく、早かったのに。だから人間性とか理性とかさあ、ほおんと成長早くてさあ、……でもちいちゃすぎる身体は、なんにも、おっつかないわけよ。
わかっているのに……おもらししちゃうときも、あって。――どんなに頭で対策しようとしたって子どもの身体構造のこと考えれば、完全なる予防策はなかった。あたしと、化で――考えても!
――そんなとき姉さんはさっ」
真ちゃんは、わたしの身体を、ゆさゆさとあやすように――でもそれにしてはやたらと激しく、揺らした、
あ、まっ、まってっ、……そんなことしたらもれちゃうよ、あ、ああ、だから――わざと、なのか……。
「たった、五歳! たった五歳身体も年上だからって、優しいみたいなお姉さんみたいな顔してさああ、真ちゃんがまたおもらししてるうー、ってゆったり、お父さんとお母さんに、……言いつけたりとかさあ、それでいてあたしには、おもらしくらいちっちゃい子はだれでもあるよとか――うう、ううう、――ふざけんじゃないのなのよっ、あのときあたしがヘラッて妹みたいにあんたに笑ってやるのに、わたし、どんだけ心のコストかけたか――わかるっ!?」
……真ちゃん、そんな、そんなの、
「……あああだからほんとうに、きもちいい! ――姉さんを犬にする作戦にあたしたちは成功したんだっ!
いいよいいよ、――あんたいらないと思ってたけどやっぱ飼ったげるわ! かわいがってあげる、一生、うちのペットのかあああわいい犬としてね、
よかったじゃなあああい――ひとりじゃないし、つがいもいるのっ! あは、あははあ、――つがいっていうのも観賞していて飽きなさそうね! ……さっきだってさああ、先にオスのほうが漏らすし……そんでお次は、でしょおおお、――あははっ! なかよしのおしっこさんたちでちゅねええ!」
……な、によ、……なかよしのおしっこさんって……ばか、なんじゃないの、ばか、ばか、ううん、違うよ、ひどいの、ほんとうにひどいの、なんで、――なんでよ、
……なんでわたしがよかれと思って妹にやってあげたこと、しかも、そんな小さなときのこと、……わたしはぜんぜん善意だったのに、どうしてわたしはいま――なんか、復讐、されてるの?
それに、……どっかから、見てたんだ。やっぱり。モニターとかでかな……。
シュンが、あんなにつらいこと……わかっていたのに、たぶんみんなで観ていたんだろうな……。
……わたしはひとのこと言えないけど。
それはわたし自身が――シュンに、高校時代、なしていたこと。
そのあとも、おしっこがとかおもらしがとか、知性だとか理性だとか、くやしさだとか、
なんだかもうよくわかんないこと喚き散らすみたいに甲高い声でぺちゃくちゃ興奮してしゃべる真ちゃんの、腕のなかで、
……わたしは、ぐじぐじ、泣いていた。
……わかるもん、そろそろ、
「……ねっ、ほらあっ。……もう、いいんじゃない?
ただのわんこがおもらししちゃったところで、あたしたちだあれも、怒らないから! 犬ってそういうもんだからねっ、あは、あははあ……」
……わたしも限界がきそうなの……。
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