どうして

 シュンの行動原理は、わたしでも、わかりきってない。

 高校のときにはあんなにもすべてをわたしの手のひらのうえであたふたさらけ出していたみたいな男の子は、いつのまにか、……わたしになんてぜんぜんわかんないなにかを、もつようになっていた。



 だって、なんで、……わたしに優しくしてくれるんだろう。



 ……シュンがわたしを、三十万円で購入した日。

 あの、土砂降りの日。せっかくお外に出ることができたのに、……冷たい雨だったあの日。

 できればおひさまのあたたかい日がよかった。……そんな日に、死にたかった。

 でも、もうどうでもいいやって思った。死ぬことのほうがだいじだった。……わたしはだれかに購入されたらその日に車に跳び込もうって、もうはるか彼方のむかしに思えるくらいにむかしに、決めていた。

 だって。このままペットの犬として生きるなんて、嫌だ。もう、尻尾も振りたくないし、エサのお皿に顔を突っ込みたくもないし、トイレのお世話をしてもらいたくもないし、お手もおまわりもしたくないし、人間に媚びたく、ない。だって、ねえわかるでしょう、嫌だよ、そんなのは嫌に決まっているじゃない――完全に依存しないとわたしはもう生活さえできないんだ。赤ちゃん未満だ、それは、そうか、そうだよね、あはは、……犬なんだもんね。

 だからわたしはずっとチャンスをうかがって、やっとやって来てくれたトラックの光を見たときは、嬉しかった、ひさしぶりに幸福感を感じた、ああ、あたたかそうな黄色い光だって、思った、あの光のなか死ねるならまだよかったかもしれない、光に、まみれて、潰れるの、って――跳び込んで……


 そして、シュンが、……わたしのきっとたったいちどだったであろう自殺のチャンスを、わたしごと全身で抱きかかえるようにして、止めた。



 ……絶望、した。

 わたしを購入したのが、かつてさんざんあんなに玩具にして、しかもきっとほとんどそのせいで進路さえも決まらなかったあのときの同級生なんだと知ったとき。

 わたしだって、最初は、殺されるんだと思った。あるいは、犯されるんだろうなって思った。……そういう相手じゃなきゃ機能しないとかペットショップのあの意地悪なひとたちにも、どこか上ずった声でしゃべっていたんだし。

 ううん、殺されるのがいちばんましな未来かもしれない――毎日、毎日、……こんどはわたしが玩具にされるよりは。あんなひどい目にこれから永遠とも思える数十年間、遭うよりは――。

 わたしは、……シュンにしたこととおなじくらい、ううんきっともっとずっと、ひどいことされるんだなって、思った。

 ひどい話だよね。でも。わたしに、自覚はあったんだ。

 あんなひどいことをしておいて、わたしがシュンにゆるされるわけはない。

 復讐、きっと復讐でしかないんだ。

 死なないで、って言ったけど――そうだよね、シュンがきっとその手でわたしを殺したいんだもんね、って……。

 わたしは、犬だから……人権もない。それは、犬をいじめることを嫌がる愛犬家っていうのはいるけど、だからたぶんわたしが虐げられ弄ばれそのうえに残酷な方法で殺されても――つまり、愛犬家が眉をひそめるくらいで済むのだ。

 ……三十万円。そのお金で、わたしの所有者は、かつていじめてた男の子となった。

 だから彼はわたしになにをしようが、自由だ。わたしは――身体的にも社会的にも、抵抗できるはずもないの……きっと、きっとひどい遊ばれ方を、するんだわ、こんどはもっとひどくわたしがあなたの玩具になるのね――

 それと、……わたしが驚いたのは、シュンがそんなお金いつのまにかポンと出せるようになっていたということだったけど――



 ……そんなふうに、思いながら、首輪のリード、曳かれて、……わたしはもうどうしようもない気持ちになっていたのに。

 それなのに――



 ……あのひとは、わたしを、いじめなかった。

 殺さなかったし、犯さなかった。

 ほかにも、いろんな約束してくれた。わたしが、人間みたいに暮らせるよう、いろんなことしてくれた。



 ……だから。だから、ね。

 わたしだって、思ったんだよ。

 ごめんね、シュン、でもきっとあなたは――




 ……わたしに、いじめられたってこと、つらすぎて、忘れたのかなって。

 ううん、話は出てくるから、きっと事実としては覚えてるんだよね――だったらきっとシュンは高校卒業後の生活がとっても楽しかったり、あとは、彼女はいないってやたら言ってたけど、もしかしたらいいひとに出会って、恋愛であれ友情であれいい出会いをして、そうじゃなかったら会社とか、仕事仲間とか、そういう……



 なんでもいいけど、……シュンはもう、いじめの傷とはケリをつけたのかな、って、……思っちゃったんだ。わたしは。

 だってシュンは、シュンはね、




 泣きたくなるほどわたしにほんとに優しかったんだもの、ううん、……わたしはじっさい、泣いてたよね。




 ……だから。

 わたしは、シュンの悪夢を知って。

 いつもいつもではない、でも、この一か月とすこしのあいだでさえも、……何回か数えられるくらいにはシュンには悪夢を見ている夜があって。

 しかも、悪夢のこととか、わたしにはなにも言わないし。

 それに……



 卒業してからもうずいぶん経つのに、

 あなたのことをずっとずーっと、さいなみ続ける、その南美川さんって呼んでるひとは、



 わたし――

 わたし、なのよ。

 ねえ、シュン。



 わかっているの?

 どうして、――ねえどうして、




 わたしのことを、いじめないの?




 ……変な問いだ……おかしいなって、自分でも思うよ。

 けど、けど、……事実としてシュンはわたしをいじめなかった。




 だからわたしのほうだってなんだかへらへらっと脱力して――でも、ちょっとリラックスしすぎだったのかもしれない。

 あるいは……油断、ともいうかもしれないけれど……。




 がらんどうになってしまった、かつてわたしの部屋だった、この部屋。

 なぜか、高校の制服を着て、火照った顔で、つらそうな呼吸で、おそるおそる、とろんとした目で、……うかがうようにじっとこちらを見ている、やけに幼い表情の、――つまり当時のままの、このひとは、

 わたしの飼い主の、シュンは、


 ……わたしがいままでの人生でも最大級にいじめたひとなんだから。

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