南美川夫妻との対面

 夫妻の気配はどんどん近づいてくる。


 僕はどうやらすべてを読み違えて、逃げるのに失敗したようだ。だから、だから、もうなすすべもなく、ダイニングチェアの隣に馬鹿みたいに棒立ちになってる。入り口は――当然、玄関だけだろう。それに、ああ、駄目だ、無理だ、――ダイニングテーブルに両手で頬杖ついて南美川真はニヤニヤしてるし、南美川化はまるでなにかいいことでもしたあとみたいにすっきりした笑顔で聖者みたいになんどもなんどもうなずいてるし、峰岸くん、は、――腕を組んだままただ冷ややかに僕を、僕たちを横目で睨むように眺めているだけだ。

 南美川さんを脇に抱え上げるようにして持ち上げてしまっていたから、両腕でしっかり抱きかかえなおした。――南美川さんは目をとても見開いたまま僕を見つめて、なぜかゆっくり視線をうつむけて、とても生温かい息をひとつだけ、僕の手のひらのところに吐いた。


 南美川家の、リビングの、――つまりここの、

 モノクロのタイルで構成されたスタイリッシュなドアが、キィ、と開いた。


 くるか――逃避であるとわかっていて、僕は思わずぎゅっと目を瞑ってしまった。高校時代からの……僕の、性なんだそれは、しょうがない、しょうがないだろう、ただの心の逃避だとしたって、――見たくないんだ現実を。いや、……いや、ほんとうはそんな上等な理屈なんてない、僕なんかに、あるわけない、――僕はこのふたごのきょうだいとは違う、違うんだ、なんだかおとぎ話以上にもっと現実味のない理屈や理論ばかり言ってる究極的な上位者たちと違って――僕のやることなすことに、……そんな上等な理屈はない。

 ただ、怖かっただけ。いまもだし、……ずっと。

 その証拠に僕は気がつけば、……それとおなじだけの力を、南美川さんの全身を抱える両腕に込めてしまっていたのだから。



 目を開いていないから、僕の感覚としては暗闇のままで。

 ……上位者たちはそんな僕に瞳を向けているのだろうけど、目を瞑っているかぎり僕は、――なにも見なくって済むのだから。



 南美川さんの、身体が、とてもあったかい気がする。こんなときに……いや。こんなとき、だからかな。

 目を瞑っているとね――こんなにも、感覚はどこか敏感になる。



 ……でも、それは、南美川さんの体温を感じている余裕があるほどには間があった、ってことだった。

 キィ、と音がしたから、もうそこには南美川夫妻がずんとしてでんとしているはずなのに――なぜだか、そんな気配はしなかった。



 時間としては、たぶんほんとは数秒だったのだろう。

 けど、そんな思考と感覚がめぐるくらいの、……数秒ではあったの、だろう。



 僕は、こわごわとゆっくり、目を開いた――




「――わっ!」

 その光景を見て、思わず声が漏れた、もしかしたらなんてことのない光景なのかもしれない、この家では、ふつうなのかもしれない、でも――僕にとってはその光景は、あまりにも、……ホラーじみていた、理屈とか理論とか以前に僕はただただびっくりしてしまって――ふらり、とバランスを崩しかけたけど、南美川さんを抱きかかえているんだからとどうにか踏ん張る。




 小さく開いた扉の隙間からは、上に大きめの健康的な肌の色の手、下には小さくてぷっくりした白い手、上下に二本の手が飛び出ていて、

 ひらひら、ひらひらと――まるでその手だけは客を歓迎するかのように、揺れ続けていた。

 一定のリズムで。おんなじ動きで。

 まるで――基礎的な機械みたいに。




 ぴたり、とふたつの異なる手の動きが同時に停止した。

 そしてすっと引っ込められ、わずかの沈黙のあと、すこしずつ笑い声が発生する。男女ふたりぶん――南美川夫妻のくつくつと沸騰するような、笑い声が。

「あははははお父さん。こんなに楽しんでもらえると思わなかったわね?」

「ふふふふふお母さん。そうだね。無邪気っていいものだねえ」

「そうねえあはははははは」

「そうだろうそうだろう、ふふふふふふふ」

 僕はただただ思う、――怖い。



 ふたりは、南美川夫妻は、……南美川さんの実の両親、育ての親、保護者だったひとたち、

 そして南美川さんをおそらくはあっさりと見捨てたひとたちは――



 僕の前に、あらわれた。

 まるで、ホンモノの、紳士淑女然して。



 南美川父。シルクハット。仕立てのいいエレガントなスーツ。

 南美川母。まるで未亡人みたいな黒いドレス。

 ふたりとも、にこにこにこにこ微笑んで、そうやって並んでいると、ああ、ほんとうに――典型的上位者に、見える。それも、ほんとうだ、――慈善事業をして社会評価をポイントを荒稼ぎしてそうだ、というのは、見た目の印象だけであってもそう思う。



 驚くべきことに峰岸くんの映像のときからふたりとも容姿がまったく変化していないように見えた――あのときはおそらくなにかの集まりのときだったからそういうフォーマルな服装なのかと思っていたのに。それに、あの映像からは二十年の歳月が経っていようというのに――ふたりは、ほんとうに、信じられないほどだけどほんとうに、……あの映像と変化がなかった。



 まるで不老不死のごとく――




 ……そこまで、思って、僕は、ぞくっ、とした。




「やあやあ、グッドイブニング、来栖春くん? ようこそ、わが家に。歓迎するよ――」

 歓迎――しかしそんなの化だってようこそと言ってた。僕を、騙したんだ。この愛想のよさ……信用、ならない。

「うふふふ、こんばんはなのよ、来栖春くん! あなたを、わが家に、歓迎します――ね。このひとのことをそうするのよねお父さん?」

「ああそうしよう。それがいちばんよかろうお母さん。だってな、真もな、」

「そうよねお父さん、犬飼っていい? ってちゃあんと素直に言えたもの!」

「そうだろうそうだろう真ちゃんは素直ないい子に育ったなあ、あはは」

「ほんとうよほんとうよ真ちゃんは素直ないい子に育ったわあ、だから――」



 ふたりは完璧な笑顔で僕を見ていた。――そこには人間らしいぬくもりさえ感じられて、僕はますますぞわりと鳥肌を粗くする。



「あなた――ウチの幸奈と結婚してくれるんでしょう?」



 ――え?



「ははは、いいムコがきたなあ。ははははは」




 ……えっ、と。え?

 ん? ――はい?




 このひとたちは――もしや、僕と違う言語をしゃべっているのだろうか?

 僕がその言葉そのまんまで捉えている意味とは、彼らの真意は違うのだろうか?

 いや、だって、その。なにを言っているのか――そのままの意味だとしたらわけがわからない。

 ほんとうに、わけが、わからない。



 でも、南美川さんには、……なにかが伝わったようだったんだ。

 ……僕がなにか言う前に、僕の腕の南美川さんは、いきり立った。

 その尻尾が――金属みたいに硬くなってる。そうとうの――感情、だ。

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