南美川真(2)お名前なんていうの?



 峰岸くんは苦笑した。

しんちゃん、決めつけはよくないよ、そうか真ちゃんは知らないよね、彼は来栖くんっていって俺の高校の――」



「えっ、なに言ってるの狩理くん」



 南美川真はきっぱりと峰岸くんの言葉を遮った。……あの、峰岸くんを、一瞬にして黙らせた。


「決めつけっていうか、えっ、それ見てわからない? ぱっと見で。嘘だよお、狩理くんならわかるはずだもんね」


 その表情は目が細いままたいして変化がないようにも見える――だが、笑顔ではない、けっしてそういう温かそうな感情を抱いてはいないらしいことは、僕にだってわかった、――おっとりとして羊のようでいて、同時にこんなにも――圧がある。

 峰岸くんの圧も、すごくて、でも南美川真の圧もすごい。たぶん別の種類の、僕ははじめて対峙するたぐいの、圧。……僕は高校卒業以降、とにかくひとの圧というものからは逃げて逃げて逃げ切れなくても逃げまどって生きてきたから、だからそうやって感じるのかもしれないけれども。


 南美川真は玄関の赤色の靴を履いた。……たかが家の外に出てくるだけだというのに、ツヤツヤ光るヒールの靴だ。

 と、いうか、南美川さんも――高校時代にこんなような靴をよく履いてこなかったか。


「っていうか、狩理くんのしゃべってたことはふつうにインターホンスピーカーで聞いてたよ。だから高校のクラスメイトだったとかなんとかいうのも把握はしてます。

 それで、ばけが、ちょっと様子見に行ってあげたほうがいいんじゃない真ちゃん、とか言うから。ほら化はゴミの日とか地域のローカルルールにもうるさいでしょ? あたしからするとちょっと潔癖かなってくらいだけど、でもねえ、――いきもののゴミってたしかに出しかた間違えると近所迷惑になるからさあ。近所迷惑はいちばんいけないっていうのは、もちろんあたしと化の信条でもあるでしょ? 無駄な迷惑なんていっちばんコスト食われるよお、やだよお、――ねええ?」


 最初こそ峰岸くんに語りかけていたようだけど、

 ぺらぺらというその最後のほうになってくると、……だれに、同意を得ようとしているのか、さっぱりわからない。



 さく、と小さな音を立てて、庭の砂利を踏んで――南美川真がこちらに、やってくる。

 僕も、そしておそらくは南美川さんも、――動けない。


 南美川さんを励ましたいしなにかしらの意思伝達をしたい、そう思う僕もいるけど、

 僕は、僕は、――動けない。まるで高校時代みたいに……。



 南美川真は、僕の、目の前。

 ほんとうに、真ん前、……いまにもくっついてしまいそうなくらいに近くに、寄ってきた。


「んー。こんにちわあ」


 南美川真は背中に手を回して、ぴょこん、と肩ごと頭を揺らした。……かわいらしい、それだけ見ればやはりたいそうかわいらしい動作だ。

 それに身長もそんなに高くないから、……いちおうは成人男性の平均程度の身長はある僕からすると、この体勢だと、――見下ろす角度になるほどで。



「あのねえ、狩理くんはねえ、あれでいて優しいとこあるから。たぶん、虫かなにかにたとえてくれたんでしょお? おなじ虫でも、――せめて蝶々だったってゆってるもん。ねええ? 狩理くん?」



 なんの話か、……僕にはわからないけど、

 リリリリリン、と南美川さんの首輪の鈴の音が激しく鳴った。

 んー、と言いながら、南美川真はひと指し指を唇に当てた。



「けどねえ、あたしはそうは思わないんだわあ。……弱者って狩理くんが言うほど資源的価値があるのかなあ? そのへんもあたしのひろうい興味関心分野のうちの、たくさんのうちのひとつの研究テーマでもあるの、――あたしねえいま南美川幸奈っていう人間だったものが残してくれた潤沢な学費でたっぷりお勉強してるしキャンパスライフも過ごしてるの。国立学府は楽しいよお。――ねっ、ところでさっ!」



 南美川真は弾む声でそう言ったかと思うと、――唐突に、もうほんとうに唐突に容赦なく僕の股間を蹴り上げてきた。

 突然すぎるしそれこそ高校時代に南美川さんに蹴られていた以来の痛みだしで、……僕は、うずくまる。

 蹴りかたの容赦のなさは、似ている、――ああいまそんなことどうでもいいと、わかってはいるのに!



「ねーえー、この仔の飼い主さあーん。……このわんこ、かわいいね? 抱っこしても、いいかなあ?」

「……ちょ、っと、待って、待ってください、駄目です――」



 どうにか痛みを堪えて立ち上がろうとしたら、こんどは後頭部にすさまじい衝撃が走った。

 グワン、とする。またしても僕は態勢を崩す。――こんどは頭を蹴られたらしい。



「ねええ、いいでしょお? だってこおーんな、ふふっ、……かわいいんだもんー、抱っこさせてよお」


 どうにか右手に南美川さんのリードだけはしっかり握ったままでいるけど、


 ひくっ、ひくっ、と、……馴染みある嗚咽がだってもういますでに聞こえてきてしまってるんだよ。

 たち、あがれ、僕、――立ち上がれ、駄目だ、南美川さんをそうさせてしまったら、僕は、僕は――



 南美川さんの絶叫で僕は反射的に顔を上げていた。



 ――手遅れだった。

 南美川真が、……南美川さんを、立ったまま抱き上げている。

 姉だったはずの相手を――まるでほんものの犬かのように、かわいいでちゅねー、なんて言いながらくふくふ笑って、……おもしろがってる。


 小さな犬の身体の南美川さんはいやいやと顔をそむけようとするが、南美川真はかわいらしい笑顔でその顔を無理やり自身のほうに向かせるのだ。赤ちゃんをあやすように南美川さんの身体を揺らす。

 南美川さんは悲鳴を上げ続け、じたばたと――実の妹の両腕のなかで、暴れる。ふるふると首を横に振り続け、幼児のように、――嫌だと喚く。


「や、やだあ、やめ、やめてえ、おろし、おろしてえ、わたしのこといじめないで、もう、いじめないで、いじめないで」

「いじめてないよお? かわいいわんこだから抱っこしてるだけなのー」

「――真ちゃん、ごめ、ごめんなさい、やめて、やめてえ、おろしてえ……」

「んんー? あのねえ、わんこは人間さまのことそうやって気軽に呼んじゃだめなんだよ? ――っていうか、声帯焼かれなかったんだねえ。だったらそうやってキャンキャン吠えたらなおさらだーめっ、だぞー。うるさいわんこは声帯を焼かれるどころか切除もありうるってことだからね? ――なあーんて、犬に言ったところで、詮無きかあ。

 ……ところでワンちゃんさあー、お名前なんていうの?」

「え、……え、」


 当然、わかっている――わかっていて問うているのだろう。

 こいつ、……こいつ、南美川真。


「ポチとか、コロとか、チビとか、お名前あるんでしょおお?

 ねえねえ、教えてほしいなー。だってほんとにワンちゃんかわいいー、ほらあ尻尾も金色でふさふさなんだもんー」


 南美川真はわざとらしく南美川さんの尻尾を掴んで、――玩具のように振り回しはじめた。

 ぐるんぐるん、ぐるりんぐるりん、と――ときに強く引っ張ったりもして。


 ――辱めて、いる。



「いや、や、やあ……やだ……」


 南美川さんも、限界、――限界だろうそんなのは、



「やだ、やだよお、やめて、やめてえ、あ、あううう、たす、……助けて――シュン!」


 南美川真が薄く笑っている、

 ――あまりの痛みとあんまりの衝撃に座り込んだ格好で呆然としてなにもできない僕を、強者がまっすぐ見下ろしている、


 僕はどうにか声を、絞り出すのだ、

 ふらふらと、……立ち上がりながら、



「……やめ、てください、そんなひどいことを――しないでください」



「ねえ。……ねええ、――飼い主さあん」



 僕のほうを向いて、……僕の言ったことは完全に無視して、

 南美川真は馬鹿にするように右の眉を持ち上げた。

 抱きかかえたままの南美川さんを、なんどもなんども、――馬鹿にするみたいに揺らす。



「――ウチはね、廃品回収業者じゃないの。

 いっかい捨てたもの、持ってこられると、迷惑極まりないってわからない? ねええ。

 ねえねえ、狩理くん。だから、わかるでしょ? ――いまどきリサイクルの方法もわかんないやつはそもそもゴミなんだってば。虫とかゆって無駄に認めてあげないほうが身のためだよ? まあでも狩理くん優しいからなあ」


「……そうだね。ごめん、真ちゃん。俺もな、もうちょっと社会性を身に着けることにするよ」


 嘘だろ、――峰岸狩理がそんなことを、しかもそのまんまの完璧な笑顔で、言うなんて――


「いいよお。だいじなのは心がけと、」



「……ご近所迷惑にならないこと」



 ぼそり、と声が割り込んできた。……ぼそりとしているのに、はっきりと聞こえた。



 いつのまにか玄関口に立っていたのは――



「あ、化」

 南美川真が、弾んだ声で呼ぶ。つまり、



 南美川化だった。

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