行くしかなかったから
その一週間で僕たちは、……たいした相談も、しなかった。
ただ、ネネさんのところではけっきょくほとんど使わなかったあの首輪とリードでのシグナルを、お互い、もういちど細かいくらいに確認した程度で。
……行く。というか、行くしかない。
それじたいは、僕にとってもそうせざるをえない結論だったし、……南美川さんは南美川さんでそう思っていたのだと、思う。
行くとか行かないっては話は、いっさいしなかったから。
その代わり、というか――南美川さんの毎晩のお散歩のとき、僕たちは、……言葉を介さずとも首輪とリードの感触だけでお互いスムーズに意思疎通ができるように、なんどもなんども、練習をした。
南美川家。
僕にとってももちろん、まず、……あの切れ長で切れ者でどこまでも涼やかな学年主席、
南美川さんにとっては、また違った意味を、もちろん、もっていて――そしてそれというのは、……あまりにも深く複雑でもつれあったものなのだということくらい、察しがついたから。
要は、お互い、――そこだけはしゃべりたくなかったんだと、思う。
僕にとっては、いくら、南美川さんでも。
南美川さんにとっては、いくら、僕でも。
あるいは――しゃべれるようなことでも、……なかったのかもしれない。
そういうわけで、僕たちは、シグナルの練習以外はまったくそれまで通りに日々を過ごしてきた。僕は仕事に行って帰って南美川さんのごはんを用意して、南美川さんの面倒を見たし。南美川さんは、相変わらず眼鏡型ポインティングデバイスで、ネイルのデザインをしていて。もうすぐで中流工程のマーケットに載せられるかもと――喜んでいた。
いっしょにいるときは、たいてい、南美川さんは僕の膝の上にちょこんと収まって、座っていた。僕は南美川さんを抱きかかえるようにしながらも、スマホをいじったり動画を観たり、……まあ変わらず自由に過ごした。仕事のあとの、自分の部屋での時間なんだからさ。
南美川さんを僕がペットショップで買ってから、ついに一か月以上が経った。
季節は晩秋と呼べる時期になっていた。冬に、近づいていく。これからますます寒くなっていく――南美川さんは、寒いのがとてもつらくて、大嫌いだというのに。そんなことは、なにひとつ関係なく、……冬というのはこんなに技術が発達した現代でも、依然として寒いまま、僕たちの肌の体感を突き刺してくるのだ。僕も、冬というのは、……苦手じゃないけど、好きでもない。
★
きゅっ、とリードの感触が持ち上がった。南美川さんのほうからの、注意喚起のシグナル。
僕はその三階建ての一軒家を見上げた。……大豪邸とか目立つデザインとかいうわけではなく、閑静な住宅街の一軒家のひとつとして、品よく収まっている感じの家だった。だが、しかし――この住宅街そのものに住むためにどれだけの世帯単位の社会評価ポイントが必要なのかと思うと、それこそ、僕は、……くらくらとしそうだ。
首都のほとんどの人間は、西部か東部に生活拠点をもって暮らす。僕も西部に住んでいるし、……実家も距離はあるけどいちおうはおなじ西部だ。
ここは、……首都中央部。ましてや自然模倣公園の徒歩圏内。つまりありていに言ってしまえば――成功者しか住めない場所だ。
その、なかに、……まぎれるほどの家であるということ。
肌寒いけど、青空だけはのどかで、……住宅街は日曜だというのにほんとうに静かで人の気配が感じられない。
まるで――時が静止しているかのようだった。……それほどまでに、動く物がなにもなかった。
そう、か。
ここか――ここで、南美川さんは、……生まれて、育って、暮らして、そして――
最後は犬に成れと家族全員に宣告されたのだ、――峰岸狩理にも。
……大理石でできた表札には、南美川、と彫られている。いまどき、表札を出せるなんていうのも、……相対上位者のあかしだってこと、僕だってそのくらいのことは、知ってる。
そして、隣には――古き良きタイプの、インターホンがある。
僕は、南美川さんを見下ろした。
南美川さんの尻尾はこれでもかというくらいにギチギチに固まって直立し、……傷跡の色素沈着はやっぱり消えないその背中には、鳥肌がゾワゾワと立っている。
くい、と上に小さく引いた。同意、を示すシグナル。
がんばって、くれるかな、――がんばってくれるかな、南美川さん。
南美川さんは唇を引き締め、うつむいた。……金髪にはきょうも綺麗にりぼんを巻いてきた。
それに――南美川さんにいろいろ教えてもらいながら、お化粧とか、……いろんなお手入れだって、したのだ。あの生物学者のアドバイス通りに――
……言えないけれど、南美川さん。
こんなところまでほんとうはあなたを連れてきたくなかった、いや、それは僕のずるい嘘だ言いわけだ、――僕はたとえあなたが人犬のすがたであっても、来てほしかったんだ、やっぱり、ひとりきりで南美川家に行くなんて、無理、無理だって、思って、
けどもやっぱりほんとうは連れてくるべきじゃなかったのかな、なんていまさら弱気になってるんだよ、僕、僕が、は、はは、だから僕はね、どうしようもないのにね、――そうやって弱気だったから僕はいじめられたんだろうし。
でも、でも。やっぱり、無理だ。
僕が万一なにか失敗して、ファイルを取ってこられないどころか、僕自身が身動きのとれない状態になったりして、あるいは南美川さんを人間扱いすることを邪魔されたりしたら、そんなのは――
……僕は、自分がヒューマン・アニマル加工をされるのとおなじくらい、……耐えられない、
あるいは――もっと耐えられない、かも、しれない。
僕は表札とインターホンを目の前にして、……ひとつだけ、再度確認することにした。
「……南美川さんのお父さんが、最新テクノロジー好きだというのは、……ほんとだよね?」
南美川さんは怪訝そうな顔で僕を見上げながらも、こくり、とうなずいてくれた。鈴がリリンと鳴る。……肯定、のシグナル。
これは、ここに来る前にも南美川さんになんどか確認をしたことだ――その問いかけの理由やその意味は、南美川さんにも教えていない。
南美川さんにさえも、教えないほうがいいと思ったのだ、――これは万一というときの僕の保険で、最後のジョーカーカードでしかないから。
「……そっか。わかった。ありがとう。
がんばろう――南美川さん」
僕は、すう、はあ、と意識的に呼吸をしてみた。
そして吐き出すときの勢いで――そのままインターホンの丸くてぴかぴかするほど真っ白なボタンに、まっすぐ、……右手の人差し指を伸ばした。
ピン、ポーン……。
リリン、と鈴の音が鳴ったから、……南美川さんも衝動的に動いたことが、僕にはわかった。
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