眼鏡型ポインティングデバイス
案の定、南美川さんはキョトンとした。
「え? ネイルのデザイン……って?」
「だから、あなたがそれをするんだよ。……したいんだろう?」
南美川さんは子どものようにこくりとうなずいた。
しかしその表情は、渋い。
「でも……できるわけ、ないじゃない。もうにどと、できないから、したかった、って言ったの……。この……この、手よ? もう物さえまともにつかめないのよ。デザインなんて細かい動き、できるわけがないじゃない……」
僕に、肉球を示すように、持ち上げる。
耳が、尻尾が、しょげていく。
……予想通りだよ、南美川さん。そして、想定通りだ。
僕は南美川さんをよいしょとカーペットの上に座らせて、立ち上がった。
こうやって僕が立ち上がって南美川さんが座っていると――その視線の差というのは、ほんとうに大きい。
僕は両手を腰にあてて、うん、と言う。
「うん。プログラミング学科に進んでおいてよかった。そしてなにより、取っておいてよかった。まったく、なにが役に立つかなんてわからないもんだね。どっちかっていうと現代だともはやローテクノロジー的って言われちゃうレベルのデバイスだから、近いうちに処分しようかと思ってたんだけど、やっぱ実習で使ったとかいうものは思い入れがあるもんなんだよね。なかなか処分できなくてさ」
「え? え? なんの話よ……?」
僕はそれに直接答えることはせず、ベッドの脇にある納戸に手を伸ばした。
たしか、このあたりに、大学時代に使ったデバイスはまとめてしまいこんでいたはず……あ、うん、この袋か。おお、記憶以上にガチャガチャしてるのと、うわっと――重たい! そうか、僕が大学に入学したのは六年近く前のことだけど、六年前ってこんなにデバイス類が重たかったんだっけ、なんもかも……。
とりあえず、その袋をベットの上に乗せて、中身をぶちまける。
さがす。
……たくさんの、旧式の、デバイスたち。
技術の進歩は速いものだし、――六年近くというのは、やはり、大きい。
六年前。僕も、南美川さんも、……二十歳になる年だった、はずだ。
二十歳のときには、無名の大学にどうにかこうにかで拾ってもらって、だれとも目を合わせずに、ひたすら黙々とプログラミングの本を読んではパソコンで実践を繰り返すという、単調作業の、灰色のキャンパスライフを送っていた、僕。
二十歳のときには、国立学府の大学三年生として生物学を学んで、ボランティアとして子どもたちに理科を教えたりもして、きっとおそらくその金髪とリボンとネイルをきらめかせて、明るい笑顔で引き続きギャルをやっていたはずの、南美川さん……。
そう。六年は、――こんなにも大きかった。
僕たちの立場を、ここまで……変えてしまえるほどには、ね。
……カチャリ、と手ごたえがあった。……コレだ。
「……あった」
僕は、ちゃんとソレを掴み上げた。
ソレ、とは――眼鏡だ。
視線で反応する、眼鏡型ポインティングデバイスだ。
つまり、これを掛ければ、……目の動きだけで、旧来で言うマウスの役割を果たしてくれる。
すこしの慣れは必要だろう。が、たとえば人間で手足の動きになんらかの不自由があるひとは、充分これでパソコンを使いこなすことができるレベルの、実用品だ。
ただしいまでは、身体になんらかの不自由を抱えるひとのためのデバイスとしては主流ではない。
視線を介さずに、個々人のそれぞれの可動域を学習させて、そこに小さなシールのようにペタリと装着をして、そこから信号を受け取るという――いわゆる身体装着型ポインティングデバイスのほうが主流だ。
視線型は簡単な設定で使えるし、反応は速いし、たしかに便利ではあった。だが、主流だったのはそれこそ五年以上前のことだろう。ずっと画面を見つめていなければいけないとか、視線のちょっとした動きで過敏に反応してしまうからとにかく誤作動が多い、などの問題が当時から言われていた。
だから、いまでは、眼鏡型を用いるひとはどんどん減っているという。
テクノロジーはほんとうに、……すさまじいスピードで進歩しているのだ。
僕がそれを大学で手に入れたのは、一年次必修の「バリアフリーテクノロジー模擬実習」においてだった。……僕の大学は、無名だし、友だちも彼女もできやしなかったけど、学力の相対偏差が低いせいか、かえって実用的な授業が多かった。理論よりも実践、みたいな。社会で即戦力になる、みたいな。……先生たちは、口を酸っぱくして、そんなようなことをずっと、言っていた。……実際、必修科目だった「Necoプログラミング入門」の授業でも、習うより慣れろだ、などと言われて、そのときにはまだ理解もしていないコードをひたすら暗記させられて、なんどもなんども書かされまくった。
キツかったけど、僕の性分には合っていた。……皮肉なことに、高校二年生に上がるときに当時の担任の先生に言った、僕は努力だけはコツコツできるんですということが、大学では、うまいこと作用したようだった。
それなりの優秀校であった高校の授業よりも、この無名の大学のほうが、すくなくとも僕にとってはぜんぜん役立つ授業ばっかりだってこと――入学したばかりの僕は、驚きっぱなしだったものだ。
……まあ、高校では、僕は授業中も教室の後ろに正座させられてたりしたし、僕の低すぎる相対偏差のせいでそれは校則的にも法律的にもぜんぜん、アリだったから、そもそも授業なんて集中できなかったもんだけど。
……この、眼鏡型デバイス。
つまり、人間にとっては、もはやすこし不便で、用済みといえるシロモノ。
でも――人犬の身体にとっては、ほんらいありえなかったほどの、自由を、……もたらすデバイスなんじゃないか?
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