オープンルームの地獄(7)「ねえ、シュン。人間になりたかった?」

 つながれている。

 オフィスデスクの下に。

 オープンルームの女の人間のひとたち三人は、仕事をしているらしい。

 会話もなく、カタカタ、カシャカシャ、ピロピロと、と、いろんな機械の音が聞こえる。


 わたしのゴツゴツした首輪から伸びる鎖のもう片方の端っこは、机に取り付けられたフックに掛かっている。

 簡単な仕組みだ、ってぱっと見ただけでもわかる。


 見上げるだけで、届かない。あの距離では。

 わたしは四つん這いにしかなれない、二本足で立っていることはできない、できたとしてもそれは芸をするときだけで、そしてこの犬の脚で二本足で立つって、とっても、とっても、つらいものなんだ。ふらふらしちゃう……。

 それにどっちにしろ、あんな簡単な仕組みだって、手が指ではなくふにふにの肉球のわたしには、たとえ手が届いたところでどうしようも――ない。


 手があったら。立ち上がることができたら。

 ……わたしが、人間であったならば――こんな鎖はいますぐに外してしまえるのに。


 わたしはまあるくうずくまっている。

 ……すこしでも動くたびにジャラリと鳴る音は残酷だ。



 カタカタカタ。

 カシャ、カシャ、カシャン。

 ピロ。ピロリン。ピロロン。



 技術の進歩スピードは、時代が新しくなればなるほど、加速度的。

 ……わたし、もうここに来てどのくらい経つのかさえわからないんだよね、

 朝も夜もわかんないし、寝る回数をかぞえるのももう、無理なんだよね、さんじゅう、超えたらやめたんだってば、――もう出られないっていいかげんわかってぐらんとめまいがしたのだし、

 まだ数か月なのか、半年くらいは過ぎたのか、もう一年ほどになるのか――カレンダーもスマホもないわたしには、人間だったらごく当然の、そんなことさえ、わからないけど。

 そうなんだよね。覚えてるよ。技術は、現代では、年単位どころか月単位で進歩していく。わたしはけっこう最新の機械に興味があったし、そのことをよく知っていた。

 ……だから、もう、デスクの上にある機械は、わたしの知らないものなんだろうな。

 かろうじて懐かしい音は、カタカタカタっていうなにかの入力デバイスの音くらいで。

 ……ほかの音は、もう、なんの音かさえも、わからないや。



 わたしはまあるくうずくまっている。

 きっと後ろから見れば、背中もお尻も剥き出しで、明るい金色のふさふさの尻尾がだらんと垂れている。……サイアク。


 もう、なにも、とどかない。

 わたしのこころも。わたしの思考も。

 ……もう、どこにも、行き場はない。



 あはは。あとは、……狂うのが先かな、殺してもらえるのが先かな。

 どっちでも、いいや、もう……どっちでも。



 どうせわたしはやりなおせない。



 ……ごめん、限界のときのいつものわたしの慰めだ、

 もっかい名前を、呼ぶね、あの子、シュン。

 べつに、わたしがいままで苛めてきたほかのコたちでも、いいんだけど、

 ……だってわたしは気づいてる、シュンは狩理くんが言及したただ唯一の――下位生物だった。


 たしかに、シュンは、下位だし下等的だった。

 おなじクラスになったとき、クラいし、ニブいし、なんの手違いだろうってわたしも狩理くんもクラスのみんなも、首、ひねってた。……そもそも研究者志望クラスはシュン以外は全員もともとの知り合いで、それはあそこがそもそもそういう根回しを一年生のときにおこなったうえで入る、エリートクラスだ。

 あの子は間違いとしか思えなかった。いつも下向いてて。


 はじめて成績表奪って見たとき、嘘でしょ、って思わず噴き出しちゃったのも、それで。

 ……だって研究者志望クラスどころか、退学になってないのがおかしいレベルだったし。


 あの子は知らなかったんだろうけど――ひとりでもそういう成績劣等者がいると、クラスとしての相対評価偏差も、ガクンと落ちちゃうの。

 そして、その事実は、年間通して相対学力偏差が60を下回らなかった人間にしか、知らされないことになっている。

 ……だからあの時点ですでに相対偏差が50ちょっとのシュンが、知ってたわけが、なかったの。


 ううん。……ううん。でも、狩理くんにも言われた。そう。たしかに。

 べつにクラスとしての相対評価変化が落ちたところで、さして問題はない、と。

 よっぽどのエリート校の伝統あるトップエリートクラスでもないかぎり、クラス全体の相対評価偏差は、自分たちの未来にはそう影響しないと。だからべつに追い出さなくてもいい。その手間のコストが、もったいない。それくらいなら俺は勉強するけど、幸奈はどうする――って。



 そして、結果としてわたしは、あの子を、……シュンを、いじめた。



 ……しょうがなかったじゃない。

 しょうがなかったじゃないのよ。

 劣等者が対等な存在だなんて、思えるわけない。だって、だって、社会がそうじゃない。

 劣等者はいじめていいし、劣等になればなるほど権利は制限されて奪われていくし、劣等が一定基準を下回れば、――だって動物や物体に加工をされるの。



 そんな相手が人間だなんて、あのときのわたしがどうしたら気がつけただろうか。



 ……あの子、けっきょく、進学先決まらなかった、って。

 まあ、そういう存在は当然だよねえ、って、卒業式のあとの打ち上げでも思い出話のひとつとして、しみじみ、楽しんで、しゃべった。



 そしてそのあと、狩理くんにその名前を言われるまで、わたしは来栖春のことをいちども思い出さなかった。

 ……人犬になってからは、もしかしたら高校時代よりもずっと、彼のことを、考えている。



 あんな状況と能力じゃ、まともに人間としてやってけるわけも、ないよね。

 もうとっくに、畜肉にでもなってしまっただろうか。

 それともわたしとおんなじで、動物になっただろうか。それとも、物体?

 ……動物だとしたら、なんの動物かな。

 でも、べつに可愛くもないし、愛玩ではないだろうな、働かされてるのかな、わたしがいまこうしてまるまってむせび泣いている、このときにも……。



 ねえ、シュン。

 ……あんたも天国では人間になるの?


 わたし、……あんたにそこで会ったら、なんて言えばいいのかな?

 自分勝手でいいならね、……質問したいことはあるんだ、わたし、あんたに。



 ……ねえ。シュン。人間になりたかった? って――




 やがて、調教師さんがわたしを連れ戻しに来た。違う調教師さんだ。シフトが引き継がれたのだろう。

 若い男性の調教師さんは、調教師のトレードマークである真っ黄色の帽子を取って、オープンルームの三人にへこへこと頭を下げた。

 そして乱暴な手つきと言葉、強すぎる暴力的な力で、四つん這いのわたしを引きずるようにして曳いていく。首輪が締まる。前足も後ろ足も、もつれる。

「はやい……はやいよ……」

 わたしが思わずうめくと、また、スイッチを押された。――べたんとリノリウムの床に貼りつくと、素肌がふれて、冷たくなる。痛いの、もう嫌だから、がんばって歩いた。



 ……いつも、きょろきょろ見渡しちゃうんだけど、

 異性のヒューマン・アニマルの調教場って、やっぱり、ここにはないのかな。

 なんかふっとひょこんと都合のいい偶然で、……男の子用の調教場とか、できないのかな。



 わたしは、いつでもさがしてる。

 いないはずの、彼を。



 きっとわたしがいまでも見下せる唯一の人間を、いまでも、さがしてしまっている。

 馬鹿だよね、

 ――いるわけもないのに。

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