オープンルームの地獄(3)褒めて、そうでなければ殺して

 もともと、子どもは、嫌いじゃなかったはずなんだ。

 それどころか、大学生のころにいくつかかけもっていたサークルのうちのひとつは知的領域分野におけるボランティアのサークルで、相対的優秀者の子どもたちに理科の実験教室をやったりもしていた。

 国立学府の学生というだけで、子どもたちは目をキラキラと輝かせてわたしを見上げた。わたしの言うことにいちいちうなずき、全員が熱心にタブレットでメモを取ったり調べものをしていた。その日のうちにレポートを書いてくる子までいて、そういう優秀な子に自分のリソースをボランティアとして差し出すことの快感を、わたしは、知った。

 子どもたちって未来があるなあなんて、微笑ましく思っていたのだ、――あのときのわたしには世界の明るい半分しか見えていなかったのだから。あの子たちは全員、すくなくとも学力強者で――そうでない子のことなんて、わたしは、その存在すら、想像することができていなかった。


 たしかに、いまにして思えば、わたしの認識も思考も不自由だったのだと思う。

 狩理くんはちゃんと弱者を認識してたもの――貴重な資源、リソースとして。


 わたしは大学生のとき、……つまり人間だった最後の時代、大学で白衣を着て過ごしていた。

 知的強者の一種のシンボル。

 わたしは、そんな特権的な服装に身を包む自分が、身震いするほどに気持ちよかった。



 その数年後に、ヒューマン・アニマルになるだなんて、まさか夢にも、思ってなかった。

 にこにこと、愛情めいた上から目線で眺めていた子どもという存在に――人犬として日々もみくちゃにされて、子どもたちなんかよりずっと大きな声で喚き叫ぶ、――幼児未満の存在に堕ちるだなんてことは、まさか、……夢にも。




 オープンルームの、キッズスペース。

 人犬用の檻とは違い、子どもといえども人間用にデザインの配慮のなされた、カラフルで、種としての動物のイラストが張りつけられたガード用の柵。

 カーペット。ゴム製のボール。安全型簡易ジャングルジム。

 すべてに色があって、ほんとうにカラフルだ。

 ……灰色だらけの環境に慣れたわたしの目には、痛い。


 そして、十数人の、幼児たち。

 ……そんななかに放り込まれてる、幼児とおなじかもっと小さな身体にされてしまった、わたし。


 人間って、四肢が犬のソレに変化するだけで、……ほんとに人間らしくなくなるんだよ。



 わたしは、三歳あるいは四歳の幼児たちに、もみくちゃにされている。

 わあわあ、わあわあ、楽しそうで。


 わたしはやだやだって首を横に振って逃げるのに、この子たちは、そのことそのものをすごく楽しんでいて。


 わたしが脅えれば、きゃははって笑う。

 わたしが震えれば、もっと乱暴してくる。

 わたしが、やめて、やめてよ、と言えば、やめなーい、と言ってもっと深追いしてくるのだ、――痛みと、傷を。



 わたしは結果として、キッズスペースの角っこに追い詰められる。

 ずん、ずん、ずん、と、迫ってくる。

 子どもなのに、おおきく見える。

 子どもでも、人間だから。手足をもつし、……なにより人権をもつんだ。


 たとえばここで事故でわたしが死んじゃったりしても、この子たちはきっと、ちょっと怒られるくらいで済むんだ。

 動物をむやみに殺したらかわいそうでしょ、って――それで終わるんだ。



 ……おばさん世代みたいに、わたしたちが人間だと知っているひとは、残酷だ。

 それは、そうで。そしてやっぱり――わたしのことを、完全に犬だと見てくる、子どもたちは、……ほんとうに怖い。



 怖いよ。



 三人、あ、増えた、……四人、五人の子どもの人間たち。


「……やめ、て……」

「ワンちゃん、ことばしゃべれて、えらいねえ!」

「しゃべれるの、どうしてだろー」

「なんで、いやなの?」

「……やめて、やめて、わたしにさわらないで、おねがい、おねがい、痛いの、痛いのいやなの、ねえわたしのことほっといてよおねがい――ひゃううん!」


 電流が、走った。

 わたしは、うずくまる。

 ……ここからだと確認はできないけど、きっとオープンルームのあの女の人間のひと三人のだれかが、見ていて、――わたしに罰を与えた。


 ……目を、ぎゅっとつむってる。

 迫りくるその気配を、すごく、感じる。


 会話が、聞こえてくる。……ルーム長の、おばさんだ。やっぱり……。

「先生、すみませんねえその仔、ぺらぺら人間みたいにえらそうでしょ」

「いえいえ、子どもたちもおもしろそうで、いいおもちゃになってくれてます」

 あはははは、と、なごやかに笑ってる。きっと、喫茶スペースで。――やだ。ゆるせない。殺したい。違う。……殺してほしいのに。



 ギュッ、と耳を強く握られた。声が出てしまう。尻尾も。強く引っ張られる。痛い。あっ、激痛。

「……痛いよ、やめてよ、痛いのよう……」


 あはははは! と、子どもたちまでもが、わたしを笑う。



「えーい、それじゃあこれはどうだー!」

「あはは、ピクンピクンってしてるねー」

「いたいー?」

「……痛いよ、痛いの、ねえやめてよう、痛いってば――」

「おて、できる?」


 痛くないほうがましだ――わたしはプライドをかなぐり捨てて、教え込まれた通りに、三歳児の手のひらに従順に手を伸ばす。


「あらあら、マウちゃんはもうそんなに犬のしつけを知ってるのね」

「うん! マウね、いい子だから、ワンちゃんをかってもらえたの」

「そう。うふふ」

「ねー、ワンちゃん、おかわりっ」


 わたしは、左の前足も、差し出す。

 ……お子さまたちに、ウケている。

 耳も尻尾も、いじられない。


「つぎは、おまわり、してー」

「わー。しっぽ、ふさふさー」

「くるくるしてる!」

「ちんちん、できるー? あれえ、できないのかなあ。ここがげんかい?」

「あ、できるんだ! かしこい!」

「……でもなんか、ないてない?」

「ねー、なんでないてるの? ……なんかはずかしいの?」

「ワンちゃんなのに、へんなのー」

「じゃあ、こうさん、できる?」

「ねえ、マウちゃん、このこいやがってるよお」

「ワンちゃんなのになまいきー」

「やれよー。こうさん、しろよー」

「かいぬしにさからうこはわるいこなんだぞー」



 ……いやだ。いやなのに。

 わたしは、ちゃんと、……おなかを見せてあおむけになった、よ。


 わたしは尊厳と代償につかのまの痛くない時間をもらう。

 ……えらいでしょ。



 サイアクだよ。こんなのは。

 ねえ。おなかも、おっぱいも、だいじなところもなにもかも――人間の女の子だったときのままのそれらを晒して、

 でも、曲げた前足は手ではなく、前足でしかなくて、

 尻尾はかたく硬直しちゃって、……わたしはあまりの痛みと恐怖でまたおもらししてしまってる。


 この子たちは、賢そうだし、もうおむつ、とれてるんだろうな。

 ……なんで、こんないきものたちのこと、わたしは、かつて一瞬でも、かわいいだなんて思っていたのだろう。

 あ、そっか、……わたしも人間の一員だったんだっけ。



 えぐっ、と涙と鼻水だらけの顔で、わたしはまたすすり泣いてしまった。

 ……涙もね、鼻水もね、気持ち悪いけど、わたしはもうそれらをぬぐうこともできないの……。



 サイアクだよ。



 ……わたし、がんばってると思わない?

 よく、ここまで、……思考を保っていると思わない?


 だれもそんなのはもう永遠に知っても、わかっても、くれないんだけど。



 ねえ。おねがい。

 だれか、褒めて、わたしを、褒めて。

 そうでなければ――もう、殺して。


 わたしね。天国では、もういちど、人間になるんだ。

 それがいまのわたしの唯一の希望、――ああ、どうしたら優先的に殺してもらえるのなあ。

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