56~それぞれの前夜~・4

 フェンデ邸の屋根に、少しずつ雪が積もり始めた夜。

 降り出してしばらく経つとさすがに寒くなってきたのか、それまで訓練用の案山子を相手に剣を振るっていたメリーゼがぴたりと動きを止めた。


「冷えてきたな。風邪引くなよ?」


 明日は大事な日なんだから、と背後から声をかけられて振り向くと、見慣れたココアブラウンの無造作なボサボサ頭。

 幼馴染のカカオが、いつまでも屋外にいるメリーゼを心配してやってきたのだ。


「カカオ君……」

「ほら、マシュマロの入ったホットチョコレート。お前好きだろ?」


 言いながらカカオは両手に持ったカップのひとつをメリーゼに手渡す。

 じんわりとしたあたたかさが、冷えた手に僅かに痺れるような感覚をもたらした。


「あったかい……ありがとう」

「そろそろ戻ろうぜ。じっとしてらんねえ気持ちもわかるけどな」


 ぽんぽんと宥めるように、大きなてのひらがメリーゼの頭に置かれた。

 ホットチョコレートの甘い香気も相まって、少女の心にいっときの安らぎを与える。


……けれども。


「手、こんなにあちこち消えてるのにいつもどおりの感覚があるし、カップも剣も持てるの。不思議ね」

「メリーゼ……」


 メリーゼの存在は今まさにテラによって脅かされている。

 正確には狙われているのは母親のダクワーズだが、メリーゼが生まれる前の母を殺されれば当然娘も消えてしまうのだ。


 モカの時と違ってすぐには修正に向かえない状況で、しかも相手は恐らく分身とはいえ今までの使い捨ての手駒ではなくテラ本人……いくら気丈な少女でも、不安に思わない訳がない。


「……戦って死ぬのは、もちろん怖いけど……それでも危険な騎士の道を選んだんだから、常についてまわることだって……覚悟できてると思ってた」


 でも、今回は違う……そう続けるメリーゼの声は震えていた。


「自分が“消える”って……存在しなかったことになるって、どんな感じでしょうね」


 この旅で、時空干渉を受けて消滅しかけたものには何度も遭遇した。

 最初からなかったものになる、あの感覚……まさか自分がそうなる時がくるなんて。


「何もできないまま誰の記憶からも消えて、痕跡も、心にも、何も残らないなんて、そんなっ……」

「メリーゼっ!」


 衝動的にメリーゼの言葉を遮るように引き寄せ、掻き抱いていた。

 高めの体温で冷え切った華奢な少女を包み込むと、カカオはカップを持たないほうの手で震える背を撫でる。


 不安と恐怖で、体を動かして紛らわすしかなかったのだろう。

 一度止まればそれは一気に押し寄せ、押し潰されてしまいそうなほどに。


「カカ、オ……くん」

「絶対にそんなことにはならない……いや、させない。お前も、ダクワーズさんも、この世界も、守る」


 きっぱりと言い切るそれに根拠はない。

 それでもこの力強い手が、幾度となく不安を取り払ってくれたことをメリーゼは知っている。


「消えそうだっていうなら、いくらでもこうやって確かめてやる。お前は、ここにいる。ここにいるんだ、メリーゼ」

「……っ!」


 ゆっくりと優しく語りかけるカカオに、メリーゼの涙腺が決壊する。

 左右で色の違う目から涙が溢れ、大粒の雫となってとめどなくこぼれ落ちた。


「ありがとう、カカオ君……こわい。わたし、こわいよ……っ」

「怖くない訳ねーだろ。ったく……痩せ我慢しやがって。辛かったら、苦しかったら、平気な顔してないで吐き出せよ」


 オレだって怖いんだから。


 少女の不安を煽るまいと、カカオはその言葉を飲み込む。


(いつも当たり前に傍にいるのに、消えちまうかもしれない……いなかったことになるなんて、消えたことに気づかないなんて……こんなに、大切なものなのに)


 どれだけ想っても、消える時は呆気ないのだろう……祖父の件、最初の時空干渉からその感覚は幾度となく経験している。


 なくしたくない、放したくない。


 降りては消える雪のように儚い少女を、強く強く抱き締めた。

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