第7話 答え
それから数分経った頃だろうか。
柊二が人混みの向こうから再び姿を現した。その右手には白いバッグを持っている。
「くそっ、あいつバッグだけ放り出して逃げやがった。まあ、周りに散々言いふらしながら走ったから、あのあと誰かが捕まえてくれたかもしんないけど」
自分で捕まえられなかったのがよほど悔しいらしい。悪態をつきながら私の前にやってくると、柊二は「ほらよ」と私にカバンを渡した。
「津田くん、あんまり無理しちゃだめだよ」
柊二の彼女がやや怒ったように言った。
「平気平気。こんなの無理なうちに入らないって」
「またそんなこと言って」
柊二はふと結衣の方を見た。カバンを手にしたまま、ぴくりとも動かないのだ。
「どうした?」
柊二が問いかけたとき、私の目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。それも一度ではなく、その後も涙は点々と地面にこぼれ落ちる。
柊二はぎくりとたじろいだ。
「な、なんだ、どうしたんだよ。財布ならちゃんとバッグの中に入ってたぞ」
「どうしたの? 小倉さん」
ナルも心配そうに声をかける。
バッグのある一点を見つめて、私はぽつりとつぶやいた。
「……壊れた」
瞳に映り込むのは、ひび割れたイルカのキーホルダーだった。
落ちたときに踏まれたのだろう、薄い青に輝いていたはずのガラス製の胴体は無惨に割れ、半分ほど残った欠片も軽く触れただけで崩れてしまいそうに見える。
それは昔、柊二がこの祭りの射的で取ってくれたものだった。それ以来、祭りに行くときは必ずバッグにつけて持って行く。
チョコレート、夏祭り、そしてキーホルダー……――柊二と私を繋いでいた糸が、一つずつ切れていく。
いつかきっと、昔のような関係に戻れる日が来るかもしれないと思っていた。だって、少し前までは毎日一緒に笑い合っていたのだ。糸を切らなけば、いつか戻れる日も来るはず。ずっとそう願っていたけれど、やっぱりもう――
イルカを包んだ手の上に、地面の上に、透明のしずくが跡を残す。あふれ出す涙は、どうしようもなく止まらなかった。
柊二が私の手元をのぞき込んだ。
「これって、もしかして俺が前にあげたやつか……? まだ持ってたのかよ。――って、えっ、もしかしてお前が泣いてるのってそれのせい?」
柊二がぎょっとしたように言った。
是とも否とも取れる動きで、私の頭がわずかに傾いだ。
「なんだよ、それくらいで泣くなよ」「他にも
そのとき、彼女が言った。
「私、やっぱりもう帰るね」
え、と柊二が彼女の方を見た。
彼女はかご状の手さげを、浴衣の前で両手をそろえて持っている。そして、少し悲しそうに、しかし優しく笑った。
「今日はありがとう。おかげで楽しかった。だけど今日、津田くんが考えているのは私のことじゃなかった。だから、私と一緒にいるのはこれで最後。今までありがとう」
背を向けた小柄な藍色の浴衣が、しずしずと私たちの前から去って行く。食べ物の袋を柊二に押しつけ、ナルがその背中を追って足を踏み出した。
「俺、彼女のこと送ってくわ。夜に女の子一人じゃ危ないからね。――津田っち、あんたはもう少し自分と周りの気持ちにちゃんと向き合え。女の子泣かせんな。小倉さん、今日は来てくれてありがと。楽しかったよ」
見慣れたにこやかなスマイルを浮かべると、ナルは彼女を追って走り出した。
「さよちゃーん待ってー! 俺も一緒に帰る~」
二人の姿が人混みの向こうに去り、祭りの中には私と柊二の二人が取り残された。道半ばに立ち止まっている私たちの脇を、時に邪魔そうに横目で見やりながら、ぞろぞろと客が通り過ぎていく。柊二は呆気にとられたような顔で突っ立っていた。
「しゅ、しゅう……? いいの? あの子、行っちゃったけど……」
私は柊二を気遣いつつ、戸惑って言った。
私の言葉が耳に入っていないのか、柊二は何やら考え込むように眉間にしわを寄せる。
「自分と、周りの気持ち……」
しばらく黙って思考に沈んでいた柊二だったが、やがて気を取り直したようにすっきりした顔で言った。
「よし、じゃあ行くか」
「えっ、どこに?」
私は手でぐいぐいと涙をぬぐいながら聞いた。
「新しいキーホルダーだよ。今から取りに行くぞ」
驚きのあまり、ぴたりと涙が止んだ。私はぬれた目を瞬いた。
「いいの?」
「俺があげたやつだからな。俺が責任持って取り返してやる」
柊二の日に焼けた顔が私の方を見る。ニッと笑うと、柊二は屋台の通りを歩き出した。
花火が上がる間際ということもあって、食べ物の店のほとんどは十人以上の行列を作っていた。屋台から離れた川沿いの土手には、地面にすき間がないほど多くの客が敷物を広げて座り込んでいる。橋の上にも、手すりに沿って多くの人だかりが見えた。
「おっ。お前ら久しぶりじゃねえか」
赤地に黒の太字で「射的」と書かれた垂れ幕をくぐると、白のランニングシャツを着た店のおじさんが景品の棚から顔を上げた。
「最近来てくれてねえと思ったら、いつの間にか随分でかくなりやがって……。相変わらず二人で周ってるのか?」
「いや、今日はたまたまそこで会っただけだ。おっさんこそ、また腹でかくなってねえか?」
柊二が聞くと、射的でなじみのおじさんは突き出た腹を叩きながら「なっはっは」と笑った。
「気のせいだ、気のせい」
使える弾は全部で三発だ。先にお金を払うと、柊二は銃の先端にコルクを詰めながら私に聞いた。
「それで、どれがいい?」
赤い棚には、おもちゃやお菓子、ぬいぐるみなど様々な景品が並んでいる。
私は少し大きめのクマのキーホルダーを指差した。クマの首元には、紫色のラメが光る大きなリボンがついている。
「じゃあ、あれ」
柊二はうなずいた。
「そうか。それで、本当はどれがいいんだ?」
私が驚いたような顔をすると、柊二が続けて言った。
「お前があんな派手なの選ぶわけがないだろ。俺が小さいのは当てられないとでも思ってるのか?」
そういうわけではないが、もし全部の弾が外れたら迷惑をかけてしまうと思った。
少し迷ったが、ここは正直に答えることにした。
「……右上の、ちっちゃい箱のやつ。水色の花形のキーホルダーが入ってるの」
よし、と柊二が言った。
銃を構えて狙いを定める。次の瞬間、弾は風を切って飛び出した。
しかし、真っ直ぐ飛んでいった弾は箱にかすりもしなかった。それは二発目も同じだった。
「おいおい、腕が落ちてんじゃねえのか?」
脇で腕を組んで見物している店主が、にやにやと笑いながら言う。
「うるせっ。今のは練習だよ」
柊二は三発目の弾を手に取った。これが最後のチャンスだ。
再び銃を構える柊二を、私ははらはらしながら見守った。
「柊、頑張って」
「ああ。任せとけ」
弾が飛び出た。
箱の上部にコン、と音を立てて弾が当たる。箱はゆっくりと後ろに傾くと、そのままぱたん、と仰向けに倒れた。
「よっしゃ!」
柊二が嬉しそうにガッツポーズをした。
店主はぴゅうっ、と口笛を吹いた。
「やるじゃねえか、坊主」
景品を受け取ると、私たちは「まいどありー」と店主の大きな腹と笑顔に見送られた。
店の外で、柊二は箱の中身を取り出して私に渡した。金色の金具の先には、水色の革製の花がついている。
「ありがとう」
私の口元には自然と笑みがこぼれた。涙はいつの間にか乾き切っていた。
私は割れてしまったイルカのキーホルダーをそっと中にしまい、新しいキーホルダーを取り付けた。白いバッグに、きらりと水色の花が咲く。
私はにこにことキーホルダーを眺めていたが、あることを思いつくと柊二に言った。
「あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
私は柊二を残してその場から走り去った。
そしてすぐに向かいの店から戻ると、私は手に持って来たものを柊二に渡した。
「はい、これ。バレンタイン、渡しそびれちゃったから」
柊二が受け取ったのはチョコバナナだった。とろりとバナナを覆ったチョコレートの表面には、カラースプレーが色鮮やかに散っている。
柊二はくしゃりと目を細めて笑った。
「今頃かよ。俺、ずっと待ってたんだぞ」
「え、そうなの?」
私は驚いた。てっきり気にしていないか、私のチョコのことなんて忘れているのかと思っていたのだ。
「そうだよ。お前がチョコくれないなんて、初めてだったからな」
柊二は歩きながらチョコバナナを一口かじった。口をもぐもぐさせながら、やっぱりお前の手作りの方がうまいな、と独り言のように言う。
会場アナウンスが、花火開始の五分前を告げた。
観客たちは着座を決め込み、花火に向けて万全の態勢を整えていた。いそいそと、片手にフライドポテトを持った青年が友人たちの待つ布陣に走り込む。
「俺さ、本当はお前と……ゆっちゃんと来たかったんだ。この祭り」
赤い提灯の灯る土手から草の生えた傾斜をすべるようにして下り、二人は小石の転がった浅瀬を歩いた。賑やかな祭りの中心から離れ、ちょろちょろと流れる水の音がやけに大きく聞こえる。
私は隣を歩く柊二を見上げた。いつの間にこんなに背が高くなったのだろう。ついこの前までは、同じ目線の高さだったのに。
「うん」
私は目を伏せて、少し微笑んだ。久しぶりに呼ばれた名前は、耳に心地よく感じた。
「彼女がいなかったら、今年もゆっちゃんと行くつもりだった。だけど彼女がいる手前、さすがに他の女の子と行くわけにもいかないし……」
「分かってるよ、そんなこと」
言い訳がましく言う柊二に、私は気にしてないよという意味を込めて笑った。
「柊は優しいから。彼女がいても、私のことまでちゃんと気にかけてくれる。私は、それだけでじゅう――」
「違うんだ、そうじゃなくて」
柊二は私の言葉に重ねるように言った。
「俺は今日、ずっと平野さんと一緒にいたのに、頭の中ではお前のことばかり考えていた。お前だったら何て言うだろう、お前といたら、もっと楽しいのにって。彼女には、本当に申し訳ないことをしたと思う。夏祭り、楽しみにしていたのに……って、そうじゃない。そういう話じゃなくて、つまり、その、俺が言いたいのは、」
私は首を傾げて柊二を見た。
河原に転がる石ばかりきょろきょろと目を向けていた柊二は、ぐっと顔を上げて私を見た。そして、叫ぶように言った。
「俺は、お前じゃなきゃだめなんだ! 俺はたぶん、いやずっと、ゆっちゃんのことが好きだったんだよ」
乾いた破裂音が一つ、遠くで鳴った。
永遠とも思える間のあと、夜空には大輪の花が咲きほこった。金色の柳のようにゆっくりと垂れた花火は、無数の泡を散らして夜空へと帰って行く。
二人は目的地に到着していた。浅瀬の中ほどにある、二つの大きな石のそば。その上に座って花火を見るのが、私たちが小学生の頃に見つけたベストスポットだった。なにものにも視界を遮られない夜空の中で、花火が鮮やかに開いては消える。
「うそ……」
私は放心したように言った。
信じられなかった。儚い夢のように水面に映り込む花火と同じく、これも私の夢ではないかと思った。
「遅くなってごめんな」
柊二が泣き笑いのような顔で笑った。
乾いていたはずの私の瞳から、みるみる涙が盛り上がった。私は指先で大粒の涙をぬぐった。
「ほんと、遅過ぎるよ」
出会ってから十年。
ようやく、私の初恋が叶うときが来た。
私は涙に濡れた顔に、精いっぱいの笑みを浮かべた。
「私もずっと好きだったよ、柊」
寄り添うように高く昇った花火は、二人の頭上で二輪の大きな花となって夜空を彩った。
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