311-320

311


父は私達を抱き寄せたとき、大事な辞書をこぼしてしまった。私達は胸元に頭を寄せ、父の鼓動を聞いていた。辞書は父が青年の頃に初めて買ったもので、もし本当に国を出ていかれるなら話したかった言葉が詰まっていた。私は辞書を拾ってあげたかった。でも父の腕の力は強かった。



312


かようにあたびる女達には婿を与えねばなるまいと長がいい、私は長に従い女達に婿を与え私自身婿を迎えた。今の長はネブセといって寂しい男で、前の長ドドが死んでから洞の長になった。ドドはあたびり死んだので、ネブセは一晩泣いたのだ。ネブセは私の父の、ドドは私の母の名だった。



313


破船で歌をうたえる奴は皆んな嘘つきだ。そいつの中にありもせんものをあると言い張る嘘つきだ。破船をうたうなら、美しくうたうというのなら、すべての港が錆びついて、すべての桟橋が腐り落ち、すべての漁師が船乗りが死に、海を皆んなが忘れたあとで、そいつは破船をうたうべきだ。



314


家に籠って繭ばかり編んでいる。繭を解いて、解いた糸から繭を編んでいる。蚕はいっとき裸になって、またわたしの繭に包まれる。わたしが解き、編んだ繭は、食い破られることがない。同じ素材、同じ蚕の繭のはずなのに開かない。蚕はどこかで死んでいる。いつ死んだのかがわからない。



315


大きなガラスの瓶に蛹をたくさん集めていた十歳の頃、祖母がこう言った。羽化しなかった子どもの何がそんなにいいんだろう、おまえは既に翅を持っている、その子らにはその子らの理屈があり、それらはおまえと隔たっているのに。十歳の私には分からなかった、祖母は三十歳の私に今、話しかけていた。



316


大きな仔犬が転げまわって遊んだその下に僕たちの町はあったので何もかもみんなぐちゃぐちゃになってしまった。みんなで山の上から見ていたら、仔犬は最後に用を足し、その後ふくふく寝てしまった。誰かが、かわいいね、と言う声が聞こえた。かわいいね、かわいいね、と、声はひそひそ広がっていった。



317


駅から始まり、駅で終わる幻の旅行に、わたしは何度も飛び込んだ。幻の鞄を持って、幻のホームに立ち、幻のことばを、ひとつ、ふたつ、まねびて喋り、幻の切符を買って幻の越境列車に乗りこんだ。わたしはついぞ旅行に出たことがない。わたしの夢は旅程を愛すること、わたしはとてもずるかったのだ。



318


あなた、それだって借り物でしょう。私の手元に建つ砂の城を見て同行人がそう言った。私が浜辺で躍起になって、日が沈むまで城を建てていたのを知っていながらそう言った。でも反論はできなかった。私は城なんて見たこともないのだ、城のミニチュアを、撮った写真の四角く小さいのを見ただけなのだ。



319


火は違う。私達の手段ではない。旅も違う。私達には遠すぎる。火ではなく、旅ではなく、ただ駆け巡る夢だけが辿り着く。



320


わたしを愛し、わたしを庇護下においた兄、あの逞しい腕、わたしの腹に浮く肋、わたしの咳に、嗄れた声に、こたえて闇呼ぶわたしの杖。

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