171-180
171
私はバランスを崩した。バランスを崩してから転びやすくなり、以前よりも地面が近くなった。地面のことをこれから話す。地面にはたくさんの砂があってそれぞれとがり方が違う。地面には虫の脚が落ちている。地面には睫毛と同じ長さの葉っぱが生えている。それで地面は春だとわかる。
172
父の背が伸び、やがて寝台に収まらなくなる。このままでは家からも出られなくなるから、その前に、私たちは父を家から出した。父の生家がまだ残っていたので、壁を取り払い、そこに移して寝かせた。時折電話が来る。何ひとつ変わらない、昔のままだと。じきにあの家にも合わなくなる。
173
灯台に住んでいたのは584年の冬から596年の春のことで、灯台は、そのころ砂石でできていて、波に揉まれ日に干されて塩をふき、その塩で私を養った。私は浜辺で貝を拾い、砕き、粉にして、それを灯台に塗りこんだ。そうすると陽射しできらきらして、船乗り達が喜ぶのを知っていたから。
174
南から来た花束が春を越せないのが悲しくて、出来心で、私の肉にみんな接いでしまった。人とは会えなくなったけれど、もういいのだ。踝からふくらはぎをつたうアイビー。背中に添い咲く金水仙。指先に、猛々しく開くチューリップ。
175
数えきるのに指が足らず、だから今いくつか覚えていない。何年も前からここに座って、この、名前を知らない楽器を鳴らしている。通りがかる人が時折立ち止まり、飯を渡してくれる。指は、年月を数えるに足りないにしても弦を爪弾くには十分で、ならば何も不都合はないのだろうと思う。
176
ふみふみのうみをふんでふとんを出る。足裏で布がやわらかい。ひねもすのたりののたりのあれは海をのしのし歩く足で、あの句のうんと遠くのほうの、水平線よりもっと向こうでは、大きな足がのたのた海を踏んでいる。春、海に行くと、晴れてかすんだ足が立ち、浜の足元に波が寄るのだ。
177
虎狩りは夜行われる。これは理に適わない行いだ。というのも、真闇の中で研ぎ澄まされた獣の感覚に敵うものはないからだ。では昼は? 人の感覚も夜に研がれてはじめて使い物になるから、これもいけない。つまり虎など狩らぬが賢いのだが、しかし人は常に虎を狩り、それは夜行われる。
178
私を育てた揺籠は黒檀でできた寄物で、破船の夜、宿屋を営む祖父母が娘のために、分け前として持ち帰ったものだった。一歳と半になるまで赤子の私はそこにいた。揺り木を揺する白い腕を私の母に盗み見られ、揺籠は浜で燃やされ、その白ぼけた昼、褪せた炎の色が、私の一番古い記憶だ。
179
下宿では交替で月の番をしていた。それはあの頃のちょっとした遊びで、月は部屋順に引き継がれ、私達は玄関ですれ違う度に、今月は誰某の月、来月は誰某の月、と一言二言の立ち話をした。さみしい晩にはコーヒーを、貧乏だから薄く淹れ、黙って論文を書きながら、行末のことを考えた。
180
この場所にいても閉じていくだけだから、だから帰ったほうがいいと、防波堤の釣り人が教えてくれる。それで今、自分は夢を見ているのだろうと見当をつける。クーラーボックスの中を覗いていると猫が寄ってきて物欲しげな顔をする。釣り人が猫に魚をやる。そのうちに閉じるのが始まる。
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