百合と拳銃

秋葉金雄

第一章 太陽十字

第一話 殺しの楽園

殺しの楽園(01)フリーランド共和国

 世界でもっとも有名な島の実態は、世界でもっとも知られていない。

 フリーランド共和国という言葉だけなら、誰もがいちどは聞いたことがあるだろう。〈殺しの楽園〉や〈同盟の監獄島〉、さらには〈出来事の地平イベント・ホライゾン〉などといった、意味ありげだが実際のところ何も伝えていない言葉と同様に。ゴールドマン諸島の最南端にある、フリーランド共和国は――公的には、誰ひとりとしてその島を正当な国家として認めてはいないのだが――殺し屋しか入国できないことも、この星の誰もが知っている。

 だが、実際はどんなところなのか?

 ポーランドのひねくれ学者が、手間ひまかけて地動説などといったものをわざわざ考え出したせいで、地球は人間にとって宇宙の中心であることをやめてしまった。この星の支配者である、人間(と、猫など)が飢餓やペストや原子力爆弾を怖れたりしながら楽しく暮らしていた地球は、神から爪はじきにされた、銀河系の端っこの、青いだけが取り柄のごくつまらない星であることがしだいに分かってきた。2038年現在、冒険家に代わって人工衛星の視界が地球を踏破し、世界から秘密の場所は一掃されたかに思われている。

 だが、それでも世界は驚異に満ちている。

 そのことを、これから桐島猫王は知ることになる。

 日米安全保障秘密諜報機関〈コントロール〉に勤める、十八歳の新人職員である彼女は、灰色の制服にくるまれた〈千年同盟〉騎士団の入管職員が、眉をしかめて液晶モニターを覗きこむ沈黙の前に立たされていた。

 騎士団職員は、国際刑事警察機構インターポールのデータベースを確認している。画面にはジェド・カモサカという彼女の偽名とともに、あらかじめ登録しておいた架空の強盗歴が表示されている……札束の分前について議論が紛糾し、河岸に捨てられた盗難車内でジェド・カモサカ氏は仲間の二人を殺害すると、そのまま逃走したのだった。ノーベル戦争賞とまではいえないが、犯罪者としてはなかなか立派な部類にあたる。

 入国条件の載った書類に、猫王が練習通りにサインすると、騎士団職員が「気をつけて」と、カウンター越しにパスポートを返してきた。そんなわけで、ジェド=猫王は一ヶ月間の入国を許された。だが、仕事はここからだ。

 島内のどこにいても上層回廊の大窓が監視塔のように見えるイーグルス・ホテルの六階に部屋を取り、スーツの上着を椅子に投げといて、猫王はビーチサイドを歩いた。目的のかき氷屋〈ブルー・ハワイ〉のヴァンを見つける。数日前から潜入していた、機関の秘密支部〈スター・フォース〉の同僚、フリップ・クォンタムが、いかついスーツ姿の男たちに甘い色つき氷のこんもり盛られたカップを手渡し、やがてこちらに気がついた。

「どうしてネクタイ外さないわけ?」

 第一ボタンまで留めたシャツの胸元を指され、猫王は肩をすくめる。対するフリップくんはアロハシャツ姿、裏口から降りてくる足にはハイビスカス柄のサンダル。「すっかりこのビジネス気に入っちゃったよ。転職の機会があったら屋台に限るね」猫王を車内に招き入れ、サンダルを彫って作った吊り看板を「CLOSE」の側に裏返して、購入窓口の絞り染めのカーテンを閉じ、ドアの鍵を閉める。

 隅のミニテレビから流れてるのはリメイク版の〈HAWAII FIVE-0〉で、いまオープニング曲が始まった。ホテルの欄干に手をかけるスティーブ・マクギャレットがふり返り、顔へ一気にクローズアップするところでリモコンを押す。

 ブツッと音声が途切れ、受像機が裏返った途端に何かのスイッチが入り、車内を覆っていた壁材が波打つように反転していって、裏のアームがキュッと収縮、巨大な液晶ディスプレイが登場した。

「ワーオ」と猫王。

「すごいでしょ?」

「すごい、……掃除が大変そう」

 暗転していく一面のマクギャレット、ヴァニティ・ヴィンセントの顔に切り替わる。ヴァニティは、〈ブラッドライン・カルテル〉を裏で管理するヴィンセント家の、跡継ぎを任された放蕩息子だった。金髪をファミリーの刺青が入った肩まで伸ばし、ギラギラした十字架つきのネックレスをいつもぶら下げ、毎日のように酒と女遊びに明け暮れている。こいつにファミリー任せたらヤバいんじゃないのと思われていた矢先、いつものように地元の酒場で喧嘩したとき、向こうのチンピラが威嚇で撃ってきた流れ弾のせいで、ヴァニティの隣にいた彼女が脳天の中身を噴いて死亡する。その子とヴァニティは幼馴染、七歳からのつきあいで、親父のダグラスに反対されながらも結婚を誓っていたのだった。

 因縁のチンピラを探し出し、屋敷に殴り込む寸前、邪魔が入る。ダグラスが上と話し、手打ちにしてしまったのである。表向きはロシア料理屋をやっている家の調理場で、テキーラを飲みながら、ぐらぐらの頭に無理やり流し込んだ親父の話によれば、なんでもそのチンピラはヴィンセント家の最近の商売相手、犯罪組織〈イマン・ザ・シス〉の幹部と親戚縁の繋がりがあったらしい。とっくに謝礼と今後の取引の条件は引き出したし、抗争になるのは避けたい、お前の気持ちは分かるが、もっと大人になってくれないか……などと説教されながら、ヴァニティ・ヴィンセントはその日のうちに家出を決心していた。貯金を切り崩し、身を隠しながら転々浮浪、流れ着いた先がフリーランド共和国。またもや酒と女遊びの日々が始まった。

 だが、黴臭い図書館で出会ったリズとかいう女にスーツケースをごっそり盗まれて以来、自分を支えてきた悪運のカルマが一挙に噴出する。なんでもないところで転び、裏路地で誰かに殴られ、二日酔いはいっこうに治らず、〈イベント〉でスりまくって財布の中身は減る一方。このままの生活を続けると島から出られなくなるのは時間の問題だが、親父のもとに戻ることはできない。どうすれば……

 ビーチチェアで夢心地、波面が夕日と溶けあって、散乱する光が空と区別がつかなくなる瞬間、ヴァニティが思い出したのはヒノマル――かつて殺しのスキルを教えてくれた日本人の元ヤクザ、ゴロー・ヤカモトにもらった名刺の存在だった。国旗を象った名刺裏の連絡先から、電話ボックスに駆け込んで、仕事のつてがないか聞いてみる。ゴローはいま、政府お抱えの情報屋をしていた。

「あんたも正義に目覚めたか」

「そういう君は現実と仲直りできないままなんだってね。はい、いいから、その中指を下ろしなさい」

「どうして分かった?」手元を見る。

「いま、君が教えたろ」

 ヴァニティは親指を下に向けた。「俺にも紹介してくれよ」

「チクリ屋か? ヤクザもんの仕事って言ってるでしょうが。君の選んだ道に文句はつけたくないけど、箱入り娘には荷が重すぎるってね。正直、今さら自分なんかに頼る時点で、まともな家出じゃない――」

「まともな家出! そんなもんがあるなんて知らなかったぜ。親父がいかれたマフィア程度じゃ同情ポイントが低すぎるっての? アフリカの方角はどっちか言ってみろ。今すぐ貧しい子供たちに土下座してやる」

「同情はしてる。君には日当たりのいい世界で生きてほしいだけだ」

「真っ当な職歴の奴に言われると説得力があるな、あァ?」

「君にも子供ができたら分かるよ」

 だったら俺の親父になにが分かるって言うんだよ、なあ。ヴァニティはそう言いかけたが、これでは親父のカルマを自分が繰り返すはず、と告げてるようなものだ。「あんた政府の犬ならよ、あるだろホラ――」指折り数えながら、ヴァニティは、

「華やかで、(小指)

 いかした、(薬指)

 (中指はそのまま)

 スリルがあって、(人差し指)

 金になる仕事、てやつ(親指)」

「ないこともない。ヒノマルの下で働く気はあるか?」

 青天の霹靂である。昨日までなら絶対にNOと言っただろう、祖国でもない旗に忠誠を誓うなんて。ヤカモトの煙草の臭いが染み込んだ電話帳から、足元の砂をなぞってヴァニティが転写していった番号は、共謀罪匿名密告用のホットライン。そこに吹き込まれたヴァニティの声は挙動不審もいいところである。とにかく俺はぶっ殺したい〈イマン・ザ・シス〉の名簿リストを持ってる、あんたらと利害は一致するはずだ、その代わり俺を〈コントロール〉で雇ってくれ……

 イマン・ザ・シスを長いこと追ってきた、コントロールの秘密支部〈スター・フォース〉にとって、これはなんとも耳寄りな情報。話の裏が取れしだい、取引に移ることになっていた。「勤勉なる監視の結果――」〈ブルー・ハワイ〉車内のディスプレイには、イーグルス・ホテルの監視カメラ映像が格子状に展開されている。ストロベリーのかき氷を食べるフリップくん、猫王にも勧めて、すげなく断られたあと、「ヴァニティに紐はついてないね。罠ってことはなさそうだ」

「これ、リアルタイム?」

 うなずく。「部屋のテレビからホテル内のネットワーク侵入して、転送してる。ヴァニティは――」ラップトップを操作し、部屋の一つをディスプレイに拡大。こちらに歩いてきたヴァニティが、ドアを抜けてフレームアウトしていった。フリップは腕時計を見る。「いつものナッソー・ビーチに行く時間。連絡はこれで」

 彼が渡してきたのは、骨伝導ヘッドセット付きの黒眼鏡。見た目には何の変哲もないスクエア・フレームだ。猫王はドアへ向かった。降りたヴァンの横を過ぎようとするとき、フリップが窓を開けて「送ってこうか?」と聞いた。

「歩きたい気分なんだ」

 ナッソー・ビーチまでは浜辺を十五分。気の抜けたカモメの鳴き声と混じって、監視ドローンの編隊が真昼の空を横切る。その影がときおり地上を貫いていく。フリーランド共和国には殺し屋しか入国することができないが、この島で物騒なやつらの相手をしてるのは、〈千年同盟〉騎士団の連中と、あの手のマシンたちである。島の収益は、ヨットと棕櫚の絵が描かれた特徴のない小さな切手を売ることと、〈イベント〉と呼ばれる不定期のギャンブルによって賄われているらしいが、もちろんそれでも赤字のはず。なんのために〈千年同盟〉の幹部連中がここを管理しているかは噂だらけで謎のまま、であった。

 砂浜に散らばるビーチチェアが緩い列を作っている。ブリーフィングで覚えた顔をようやく発見。ヴァニティは緑色のビール瓶をあおり、ちょうど空になったようで、隣の小さなテーブルに投げるように置いた。ふらふらの手でマネークリップを取り出すが、ドル札がこぼれ、砂をなぞりながら飛んでくる一枚をちょうど猫王が拾い上げ、顔を上げるヴァニティの視線に沿って、八本脚でのこのこ砂を踏んでくる自販機の方へ向かう。

 ビール瓶を投げ渡して、猫王は隣に座った。

「あんたが……」ヴァニティがつぶやく。

「リストの確認をしたい」

「ここにはない」ビール瓶を半ズボンの股間に押しつけ、ベルトのバックルを栓抜きにして蓋を外し、ヴァニティはひとくち飲んだ。泡がジッパー周りに染み込む。彼のワイシャツの袖から刺青の先端が見える。「ある場所を知ってる。親父が経営してるマクタガート・ホテルのペントハウス、暗証番号はここ」自分の頭を指した。

「信用できないな」

「そっちこそ保証はあるのか。日本で働かせてくれるっていう――」

「嘘発見器にかけて、適性検査。昼間っから酔っ払ってるやつにパスできるかは分からん」

「あんたも飲むか?」

 猫王は首をふった。ヴァニティはまた、すらっとした喉を飲み鳴らして、

「言っとくがな、二日酔いになってもあんたより強いと思うぜ」

 テーブルに転がっているビール瓶の蓋を五個、次々と腕に並べて乗せる。

 ――振り上げ、舞い上がった蓋たちを掌で一つずつ、一瞬にして空中で掴まえた。一つも落とさずに。「反射神経だ」握りつぶした蓋をテーブルに置き、まばたきをした直後、彼はいきなり桐島猫王の首元につかみかかってきた。「おい、俺を売りやがったな?」

「やっぱり酔ってるんじゃないか」

「あいつらは?」背中から出した拳銃を、彼は猫王のひたいに向けた。

 彼の目線の方をふり返ると、砂浜にはいつの間にかグレースーツ姿の男たちがずらりと並んで、二人を遠巻きに囲んでいる。

 猫王の後頭部に銃口が突きつけられる。

「五秒以内に説明しないと、お前の命日を今日にしてやる」

 そう言われても、猫王にはまったく身に覚えがない。

 ヴァニティが安全装置を外す。「五、四、三……」

 ――銃声。拳銃を握ったヴァニティの手首がビクッと痙攣して、うつ伏せに倒れていき、彼の背後に立っていた別のグレースーツの男が見えた。ヴァニティを撃った銃を、男はゆっくり、猫王の方に向けていく。砂浜から珊瑚石の階段に向かって全速力で走り出した猫王に向けて、周りにいたグレースーツの背広が次々に翻った。いくつもの銃が駆け上がっていく一点に向けて撃たれ、堤防に並んでいたカモメがいっせいに羽ばたく。階段を転がり落ちていく猫王は、なんとか顔を上げるも、やがて砂浜に突っ伏した。視界が黒に呑まれていった。

 流れ弾に貫かれた八本脚の自販機が、折れた脚の破片を散らして横ざまに倒れ、二十六本のジンジャー・エールを道路に吐き出していった。

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