バレンタインデーとブラウニーの話
「ねぇ、
「なに?」
夕飯に使った食器の洗い物の最中、隣に立ち手を泡だらけにした君が私の名前を呼ぶ。
「今年のバレンタインなんだけど」
「…少し気が早いのではないかしら」
カレンダーはまだ二月一日をさしたばかり。
思わず少し眉を寄せながら君を見やれば、フフフフフと君が少し変な笑い声を零す。
「あと十三日しかないからね。美晴さんのことだから、そろそろ何にしようかと考えだす頃だろう?」
にっこりと笑いながら言う君の言葉に、「まぁ、言われてみればそのとおりなのだけれど」と小さく頷く。
「二月…といえば」
「…いえば?」
「如月、ともいうよね。それと」
「
「初花月かぁ。どんな字を書くんだい?」
「初物の初に、花束の花に月と書くわ」
「なるほど…じゃあ、初物の花を使った花束を用意しようかな。今年はまだミモザの花は贈っていないしね」
「言ってしまうあたりが、君らしいわね」
くす、と小さく笑う私に、泡まみれの両手をぐねぐねと捏ねながら「だってねえ」と君はつぶやく。
両手を合わせて、ゆっくりと開く。
何をしているのだろう、と
ふううう、と冬貴がゆっくりと息を吹き込むと、彼の手から逃れるかのように、みるみるうちに透明の膜は丸みを帯びる。
けれど、あと少し、というところで、ぷつん、透明の膜は弾けて消えた。
「あああ、失敗しちゃった」
「突然、何を始めるのかと思ったら、シャボン玉?」
「そう。やらなかった? 小さい頃、お皿洗いのお手伝いしながらとか、お風呂の中で、とか」
「……あまり、覚えはないけれど…お店のものでならやっていたけれど」
「僕もやってたよ。たまに間違えて舐めちゃったりしてさ。アレ、苦いんだよね」
その時の苦い記憶を思い出したのか、彼はほんの少し顔を顰めながら泡まみれの手を洗い流す。
そんな彼に、ふふ、とまた小さく笑いながら、「それじゃあ」とふと思いついたことを口にだす。
「今年のバレンタインは、大人になった君には、少しビターなブラウニー、なんてどうかしら?」
「ブラウニー!美晴さんの作るブラウニーは大好きだから嬉しいな」
「あら、それは良かったわ」
「ああ、そういえばね。美晴さんに初めてブラウニーを貰って感動をした僕は、ブラウニーについて調べたことがあってね」
「……君は…」
何をしているの、と口に出しかけたけれど、あまりにも楽しそうな嬉しそうな表情をする彼に、その言葉は口に出ずに終わる。
「美晴さん、ブラウニーが世の中に広く知られるようになったのは、とある万博がきっかけだった、って知っているかい?」
「万博?」
「そう。諸説あるんだけどね、公の場所に初めて登場したのは、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会だったらしいんだよ。シカゴの有名なホテルのシェフが、ホテルの創業者の奥さんに『万博に参加する女性のために、フィンガーケーキを作ってほしい』っていうリクエストに応えて考案したものがブラウニーらしいんだ」
「どうしてわざわざフィンガーケーキにしたのかしら」
最後の食器に手を伸ばした私に、「僕がやるよ」と言い彼は最後の洗い物にとりかかる。
「ええと、どうしてだったかな。確か…ああ、そうそう。お弁当箱から気軽に出して食べれるような、ケーキのひと切れよりも少し小さいデザート、っていうリクエストだった、はずだよ。なんだか、おにぎりやサンドイッチのような感じに思えてくるよね」
「…少し違うような気もするけれど」
「そうかなあ?」
「ええ。はい、タオル」
「ありがとう」
すべての食器を洗い流し、手に残った泡を流した彼にタオルを差し出せば、「でもさ」と彼は手を拭きながら口を開く。
「ブラウニーって、最近のパン屋さんとかに置かれているあっさりさっぱりしていて、たくさん食べれてしまうタイプのものも、もちろん美味しいんだけど、昔からあるケーキ屋さんとか美晴さんの作ってくれる少ない量でも満足感を感じるずっしりとしっかりとしたタイプが僕は好きだな」
「私の作るものは、母から教わったレシピだから参考にならないと思うけれど…」
「そうかなぁ。でも僕はクルミやいちじく、アプリコットとかナッツがたっぷり入った美晴さんの作るブラウニーが好きだよ」
「あら。それはありがとう。母にも言っておくわ」
「いや、それは僕から伝えるよ。こんなに美味しいレシピを美晴さんに伝えてくれてありがとう!ってね」
満面の笑みで言う彼に、なんだか自分まで嬉しくなって、ふふ、と小さく笑えば、目が合った彼は、またさらに目尻をさげて笑う。
「ところでブラウニーって、どうやって作るんだい? スポンジケーキを焼く時みたいにメレンゲを作ったりするのかい?」
いつものように食後の紅茶を入れようとやかんに湯を沸かす。
そんな私の行動に、彼もまた手慣れた様子ですぐに手の届くところに置いてあるいくつかの茶葉の瓶の一つを手に持ち、こてんと首を傾げながら彼は言う。
「そんなに手間暇のかかるものではないと思うけれど…。私はまずは、好きな味のチョコレートを用意するところから始めているわ」
「チョコレート?」
「そう。ブラウニーって、湯煎にかけたチョコレートを使うのだけれど、やっぱり味の決め手になるから、私は好きな味のものを使うようにしているわ」
「なるほど。あとは…バターとか、卵、かな?」
「そうね。グラニュー糖に、牛乳、薄力粉とベーキングパウダーを少しと、あとはさっき君も言ったナッツやドライフルーツが必要ね」
必要な材料をあげていけば、彼が指折り数えながら「お菓子って結構色々と材料を使うよね」と少し驚きながら言う。
「ええ。それに、今の世の中の女の子たちは、友チョコというものでたくさんの量を作る子が多いというから…大変よね」
「ああ、僕も知っているよ。まるでその日だけ転職をしているかのような状態になるんだよね」
彼の言葉に、「きっとね」とうなずきながら答える。
配る人が増えれば増えるほど、材料も増え、溶かすチョコレートも増える。
数人であればまだ気楽なものの、大人数に、となると作るほうも大変な作業だ。
けれど。
「それほどの手間暇をかけてまで、相手に喜んでほしい、と思えることは、とても素敵なことよね」
お菓子を作って、冷やし固めて、それをラッピングをする。
きっとそれだけでお休みの一日が丸々潰れてしまうだろう。
それでも相手に喜んでほしくて作る、という気持ちは、とても大事で素敵なことで、私もその気持ちなら、十分に理解できる。
それが友としてはもちろん、大切な大事な人のためであれば、丸一日潰れたって、苦になどならない。
ちら、と隣に立つ彼を見やれば、「ん?」と目が合った彼は、柔らかく笑いながら首をかしげる。
「別に…なんでもないわ」
ふい、と思わず視線を逸した自分は、可愛くないと思う。
けれど、そんなことを思っている、ということですら、隣に立つ彼には、きっとお見通しだ。
「ねぇ。美晴さん」
「…何かしら」
こと、という音とともに、彼の持っていた紅茶の小瓶が、作業台に置かれる。
「今年は僕からも美晴さんにチョコレートを贈りたいから、一緒に作ろうか」
「……本当に君は…」
チョコレートすら溶けてしまいそうな甘い表情を浮かべる冬貴に、ほんの少し、耳が熱くなる。
「今の美晴さんなら、体温でチョコレートを溶かせそうだね」
「それはきっと冬貴のせいだわ」
その言葉に、ふい、も顔を背けた私に、冬貴が、ふふふ、と笑ったあと、私を腕の流れへ閉じ込めてまた小さく笑った。
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