梅の実と梅シロップの話 前編


「先週まで、あんなに雨が降っていたのに、今日はとても良い天気ね」


 本格的な梅雨に入ったここ数日間は、大地に潤いを与える雨が降り続いていて、お天道様がなかなか顔を出してくれない日々が続いていた。

 久方ぶりの良い天気に、洗濯物が、庭へと並んでいく。


 あと少し、と残り少なくなった洗濯物へ手をつけた時に、「ピンポーン」と我が家のチャイムが来客を告げた。



「美晴さん。今年も大きい実が出来たみたいだよ。ほら、これを見てよ」


 そう言って先程の来客者、宅配業者から受け取った箱を開けながら、我が家の主は私の名前を呼ぶ。


「お義母さんから?」

「うん。また随分とたくさん送ってくれたみたいだけど」


 箱が重かったよ、とは言うものの、家の主、冬貴は嬉しそうな顔をしている。

 よいしょ、と言いながら、彼は果実が入った段ボールを縁側においた。


 洗濯カゴを持って縁側へ近づくと、梅の実の甘い香りがほんのりと香ってくる。


「流石、お義母さんね」


 箱の中に並ぶのは、若い青い実、ではなく、熟し始めて色が黄色へと変わりだした実が、箱の中で、今か今かと出番を待っている。


 お酒をあまり飲まない我が家では、梅の実は、梅シロップ作りや、蜂蜜漬け、甘露煮にしたり、梅干しにすることが多い。


「母さんが、どうかしたかい?」


 縁側に座る彼は、私の呟いた言葉が、梅の実とお義母さんに上手く結びつかなかったようで、首を傾げている。


「君は、梅シロップはコクと香り、甘さが出るものが好き、でしょう?」

「そうだねぇ。サッパリしたものも嫌いでは無いけど、甘いほうが好きかな」

「ええ、知っているわ。そんな君のお義母さんが送ってきてくれたものは、青くて硬い実ではなく、熟し始めて色が黄色へと変わりだした梅の実。青い梅で梅シロップを作ると、シロップの色が濁らず透明。さわやかでさっぱりとした飲み口になるけれど、熟した実で作ると、シロップの色はほんのりと黄色いがかった色合いに出来上がり、青い実のシロップとは格段に変わる豊かな香りが広がる。そして」

「まったりと、濃厚な味わいになるね!」

「ええ、そうね」


 梅の実を手にとって匂いを嗅ぎながら、今にも食べてしまいそうな顔で頷く彼に、くすくすと笑いが溢れる。


「こんなにも君が喜ぶと知ったら、お義母さん、喜ぶでしょうね」


 ふふ、と笑いながら冬貴を見れば、彼はパチリと瞬きをしたあとに「美晴さんにはかなわないね」と彼は照れたように笑った。


「ところで美晴さん」

「何かしら」

「せっかくの梅雨の合間の晴れた日だから、二人で出かけてもいいかな、とも思ったのだけど、このまま梅シロップの準備でもしようか?」

「そうね。洗濯物もたくさん干しているし。けれど、まだ氷砂糖を用意していないの」

「知っているよ。だから」


 くい、と片手が彼にひかれる。


「僕と、デートしませんか?」


 にっこりと笑いながら言う彼は、今日のお天道様のような笑顔を浮かべて、私の手を握る。


「あら、買い物はついで、でいいのかしら?」

「構わないさ。近所への買い物も、美晴さんとなら、僕はいつだってデートになるのさ」


 ぱちん、とウィンクをする彼に、クスクスと小さく笑い声が溢れる。


「デート、だと言うのなら、帰りに寄り道をしたいところがあるのだけれど」

「どこだい?」

「駅前に出来たクレープのお店に行ってみたいのだけれど、どうかしら?」

「いいね!ぜひ行こう!」


 何を食べようかなぁ…ともうすでにクレープのことを考え始めた彼の髪が、陽の光を浴びてキラリと光った。



「そういえば、美晴さん」

「なぁに?」


 氷砂糖や、夕飯、お弁当の食材を買うため、カラカラと買い物の荷物を入れるカートを片手に引き、もう片方の私と繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら彼が問いかける。


「今年の梅は、アク抜きをしないで出てきたけれど、構わないのかい?去年は、確か水に漬けていたと思うのだけど」

「えぇ。今年の梅はアク抜きをしなくても平気なものをお義母さんが送ってきてくださったみたい。農家さんからのお手紙にも書いてあったわ」

「じゃぁ、今年は特別だったんだねぇ」

「そうかも知れない」

「じゃあ、例えば、なんだけど、アク抜きが必要なものを、アク抜きをしないで作るとどうなるんだい?美味しくはないの?」

「ううんと、そもそも、アク、が何を指しているかは君は知っている?」

「え、んーと、苦味とか?」


 こてん、と首を傾げながら問いかける彼に、「正解」と答え言葉を続ける。


「アク(灰汁)とはえぐみ・渋味・苦味を感じる味の総称になるのだけれど、舌に感じるイヤな味、と言うと分かりやすいかしら。喉がイガイガすること、とかもそう。山菜は種類によっては、アク抜きせずに食べると体内のビタミンB1を分解してしまったり、アルカロイド類が含まれていて、食べ過ぎると吐き気を催したりもする。けれど、アクが多少含まれているからこそ、その食べ物の個性的な味が引き立つこともあるから、加減が大切、ということになるわね」

「なるほどねぇ。ごぼうとかは、ポリフェノールが多く含まれる、とか聞くね」

「そうね。けれど、成熟していない青梅の実のアクは、苦味やえぐみが出てしまうから」

「アク抜きが必要、なんだね」


 なるほど!と言いながら微笑む彼に、クスクスとまた笑いが溢れる。


「ああ、それと。成熟していない幼い小さな青梅の実や、生の青梅の実を食べるのはアク抜きの有無に関わらず危険と言われているわ。一口噛じるだけでも危険、という人もいるのだけれど、基本的には避けるべき。特に種には青酸配糖体と言って、種を守るために、糖と青酸が結合した物質があるのだけれど、果肉よりも10から20倍含まれていて、危険なの」

「え?梅の実に、青酸があるのかい?」

「いえ、青酸とは、別の物質よ。ただ、大量摂取すると、体内にある酵素などによって、分解されて、猛毒のシアン化水素が発生する。もし、一度に100個以上も生の青梅を食べた、となれば青酸の中毒症状が出る、と言われているけれど……」

「凄い数だね……そもそも、生の青梅なんて、美味しくなさそうだけれど」

「そうね……実が大きくなって、種が固くなるにつれて、果実が種を守る力が弱くなる。そうすると、青酸配糖体は自然に段々と分解されて、私たち人間も食べられるようになるのだけれど……結局は、青梅をそのまま噛じるとアクが強いから」

「美味しくない、と。でも梅シロップとか、梅干しは美味しいよね?」

「ええ。梅の実に含まれる青酸配糖体は長い時間をかけて保存すれば、糖に代わり消失すると言われているの」

「へえぇ。じゃあ、梅は食うとも核食うな、中に天神寝てござる、って諺は、生の青梅の種は危険なんだ、って伝える諺なんだね」

「諺は知らなかったけれど……」


 そういうこと、と頷けば、「美味しくない上に、危険なのであれば、皆食べないだろうね」と彼は笑う。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る