Ⅴ 命の光

「ごめんなさい。本がくずれるなんて、思わなかったから……。それよりあなたは大丈夫? 怪我はないですか」


「えっ? ……あ、ああ」


 まさか子供に気遣われるとは。


「よかった」


 細めていた目元の緊張を解き、小さな唇が笑みを形作る。初めて年相応の無邪気な表情を見せた子供は、陽の光を受けて眩しげに光る髪を風に遊ばせながら、ゆっくりと立ち上がった。


「枕にするつもりじゃなかったんです。ちょっと本を読んでいたら、ねむくなっちゃって」


 子供は椅子の足元に散らばった本を拾い上げた。

 くっと息を詰めて本を持ち上げ、しかし片手で持つのは辛いのか、両手で抱えると、どすっと音を立てて再び長椅子の上にそれを置いた。


<エルシーア海軍100年史>


 どうみても子供が読んで楽しいと思える本ではない。


「よいしょ……っと」


 子供は再び落ちた本を拾い上げた。そして、長椅子の上に積み上げていく。

 淡々と繰り返されるその作業を私は黙ったまま見ていたが、好奇心に負けた。

 本当にこの子供が本を読んでいたのかどうか確かめたかった。


「ちょっときいてみてもいいかね?」

「なんですか」

「君は船が好きなようだね」


 そう話し掛けると、あの青緑色をした瞳が生き生きと輝きはじめた。


「はい。いつも時間があれば、ここからアスラトルへ来る船を見ているんです」


「そうか。じゃあ、エルシーアの軍艦はよく知ってるんだろうね。最近作られたアストリッド号は見たことがあるかね? あの船は大砲を二層甲板に98門も配備し、港を守る浮き砲台として、にらみをきかせてるんだよ」


「あの」


 子供が鋭い口調で私の言葉をさえぎった。


「なにかね」

「あなたの今いわれたことには、間違いがあります」

「ほう」

「アストリッド号が作られたのは今から六年前。それに彼女は、三層の砲列甲板を配備した大砲100門を備える1等軍艦です」

「そうか。そう言われれば、君の言うことの方が正しい気がする」


 いや、まったくもってそれは正しいのだが。



「あなたなら彼女へ乗艦することもありませんか、大佐どの」


 私は眼鏡をかけなおした。ちょっと得意げに微笑む子供の無邪気なそれに、ついつりこまれそうになりながら。


「その軍装は大佐だと思ったけど。……違っていたら、すみません」

「いや、確かにそうだよ、君」


 子供は急に視線を私から逸らせた。小さくため息をついている。


「ごめんなさい。だったら、お祖父様か父様に用事があって、うちへ来たんですよね。でも、二人ともここにはいません」


 先程までの生気に満ち溢れた目の輝きは消え失せていた。


「お祖父様はあと一月ほど屋敷に戻らないと言っていました。父様の方は……何時帰って来るのか、僕には教えてもらえませんでした。だから……」


 子供は膝を抱え、風がその柔らかな髪を乱すままに任せながら、陽光にきらめく海を見つめていた。


「違うんだ」

「えっ」


 私の言う意味が良くわからないという風に、振り返った子供が小首を傾げた。


「私はお祖父様や父様に会いにきたんじゃない」

「……」


 子供が再び表情を強ばらせて、戸惑ったように私を凝視している。

 でも私は愛しい人の面影を宿す、その現し身とは知らぬ子供の瞳を食い入るように見つめていた。


 ああ。その眼差し。

 彼女を再び見ることは、決して叶わないと思っていたのに――。



 


『オーリン。来てくれてうれしいわ。ほら、見て』


 真新しい産着に包まれて、小さな吾子は彼女の腕に抱かれていた。


『初めは実感がわかなかったけど、この子は私の分身なの。私がこの世に生きたという証――』


『この子は私の命の光、そのもの』




 リュイーシャの声が、風に乗って聞こえたような気がした。

 とても近くで。

 遠い記憶を探りながら、私はそっと子供の名前を呼んだ。


「会いたかったのは君なんだ。きっとね、シャイン」





  -完-





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