【17】海神の巫女

「おい大丈夫か?」


 アドビスは死んでも舵輪を離すまいとしがみついている、ウェッジ航海長の頬を叩いた。


「……グラヴェール艦長? おや、俺達一緒に死んじまったんですかい?」


 気付いた航海長はアドビスの顔をどこか遠くを眺めるように見つめ、げほげほと咳き込みながら海水を吐いた。


「私にもわからん。一体何がどうなったのか……」


 アドビス自身も当惑しながらウェッジの隣に腰を下ろした。唇を歪ませ、航海長の薄くなった頭へ手を伸ばす。そこに髪の毛代わりのように貼り付いた、緑の海草をつまんで甲板に投げ捨てた。


「あ、どうも……」


 航海長がその行為を惚けた顔で眺めた。

 しかし視線がふらふらとして焦点を結ばない。

 どうやら彼は放心状態に陥っているようだ。けれど無理もない。

 あんな恐ろしい目にあったことは、十二才で海に出たアドビスでさえ一度もなかったのだから。



 風が強まり船が凄い勢いで走り出した。

 このままでは追波になる。そう思ってハーヴェイに船尾から海錨を投錨させ、それが船の速度を落としてくれることを願った。


 その時、今まで見た事がない程の高い波がフォルセティ号を後ろから持ち上げたのだ。50リールあるメインマストを優に飲み込むほどの高波が発生するとは通常考えられないが、それは確かにフォルセティ号を捕まえて海面へ叩き付けようとしている。


『何でもいい! 皆、何かにつかまれ!』


 フォルセティ号は全部のマストに上げていた帆をちょうど畳み終えた所で、各マストに二十名ずつ――甲板に出ていた当直の人間は七十人ほどいただろう。

 フォルセティ号が船首を下にして、海へ突き刺さるように転落していくのをアドビスは見た。黒々とした深淵に船もろとも自分達が飲まれ、沈むのを見た。

 それなのに――。

 どうして船は無事に、そして何事もなかったかのように浮かんでいるのだろう。



 アドビスはゆっくりと舵輪の側から立ち上がった。

 風は相変わらず生温い空気を運んでいるが、空は先程までの薄明かりが消え失せ、ちかちかと無数の星が瞬いている。海もまだ少し波が高いが先程までの異常さはない。


 どうやらあの無気味な嵐は通り過ぎていったようだ。

 甲板では上げ綱にしがみついて船から振り落とされずに済んだ水兵達が、互いに声をかけながら起き上がっていた。

 無事を喜んで肩を叩きあう彼等を見ながら、アドビスは頭を振って濡れた髪から水気を飛ばした。


「船が海面に向かって突っ込んだ気がしたんじゃが、ワシの見間違いだっただろうか」


 アドビスは航海長のぼやきを小耳に挟みつつ、今度はずぶ濡れになった航海服の裾をつかんで海水を絞った。


 夢ではない。

 騒がしくなったフォルセティ号の甲板をアドビスは険しい顔で眺めた。目の前のミズンマストの帆桁から、海水の雫がぽたぽたと途切れる事なく落ちているのが見える。

 張り巡らされた上げ綱には、ウェッジ航海長の頭にへばりついていた同じ緑の長い海草が絡まっており、風にあおられひらひらと舞っている。


 夢ではない。

 フォルセティ号は海に飲まれ、そして再び浮上したのだ。


「グラヴェール艦長、ご無事でしたか!」

「オルソー? お前も無事か」


 赤毛の掌帆長は筋肉質の体にぴったりと濡れたシャツを貼り付かせながら、舵輪の前に立っているアドビスの所までのしのしとやってきた。

 その顔は興奮しているのか頬が赤く上気している。


「オルソー掌帆長しょうはんちょう。悪いがすぐに各マストの班の点呼をとって、行方不明者がいないか確認してくれ」

「はい艦長。あの――それで報告することがあるのですが」


 オルソーは眉根を寄せ、ぐっと歯を噛みしめている。その気配にただならぬものを感じたアドビスは、言葉鋭くオルソーに問いかけた。


「どうした? 誰か行方のわからないものがいるのか?」


 オルソーはちらりとアドビスの顔を見上げ、ゆっくりとうなずいた。


「水兵のジンの奴が……一緒にいたユーギルの話じゃ、船が海に叩き付けられた時にメインマストから振り落とされるのを見たっていうんです」


 アドビスは少し前、メインマストの一番上の帆を畳んでいた小柄な水兵のことを思い出した。彼は――ジンは、まだ十五才の少年だがマスト登りが早く、身のこなしも軽い水兵だった。しかしあの時は風が強いせいで帆を畳むのに手間取っていたのを覚えている。だからアドビスは、近くにいた水兵ユーギルの班を応援に回せと、副長シュバルツに命じたのだ。

 

「ジンの他に行方不明者は?」


 オルソーは丸っこい顔をしかめ首を振った。


「わかりません。ハーヴェイ二等士官が点呼をとっています。でも、多分ジンの奴だけかと。後は滑車にぶつかったり、上げ綱に絡まったせいで擦り傷をこしらえた水兵が二十人ぐらいおります」

「わかった。他に行方不明者がいたら教えてくれ」

「了解しました」



 アドビスはオルソーと別れた。まだはっきりしないが上甲板の行方不明者はジン一人。それがわかった途端、今度は船室の様子が気になったのだ。

 開口部は嵐の前に閉鎖させていたが、フォルセティ号は海に沈んだのだから、船室や下層甲板も当然海水が侵入しているはずだ。


 非番の水兵達やウェッジ航海長の細君コーラル夫人。そして最下層の医務室にいるマヌエルに、あのリュニス人の姉妹――リュイーシャとリオーネ。

 船底の魔女と恐れられるマヌエルや、船の揺れに慣れているコーラル夫人は大丈夫だろうが、船に慣れていないリュイーシャ達はさぞ恐ろしい思いをしただろう。

 誰かにあの姉妹の様子を見に行かせた方がいいかもしれない。


「ゲホッ! ゴホッ!」


 アドビスはその時、後部甲板右舷側の手すりに弱々しく背中を預け、ぜいぜい喘ぐ副長の姿に気付いた。


 なんだ、お前も無事だったか。

 よく振り落とされなかったな。その根性だけは褒めてやる。

 

 アドビスは唇をゆがめながらシュバルツを一瞬だけ賞賛の眼差しで見つめた。そして怏々と副長に向かって呼びかけた。


「シュバルツ。無事でなによりだ。怪我はないか?」

「……」


 シュバルツは甲板に座り込み、俯いたまま返事をしない。

 アドビスは副長のふてくされた様子に思わず顔を引きつらせた。


 心配してやっているのに。こんなときでもまた『だんまり』か。


「……だから、嫌だったんだ」


 独り言を言いながらシュバルツがのろのろと顔を上げた。上流階級育ちの品の良いそれが今は見る影もなく、頬は痩け、肌は病的までに白く、唇も青ざめて紫色になってしまっている。

 額に濡れた黒髪を海草のように貼り付かせたまま、シュバルツは激しく首を振った。


「船が海に飲まれた! 我々は死んだ! わ、私はリビエラ伯爵家の嫡子だ。私が死んだら家を継ぐものがいなくなるんだぞ! それなのに、父上は何故、私を海軍なんて行かせたんだろう!」

「……シュバルツ」


 アドビスはもう一度静かにシュバルツへ声をかけた。

 彼は船が沈む事に、そして自分が死ぬかもしれないという恐怖のあまり、錯乱状態に陥りかけているようだ。


「しっかりしろ。お前は生きている。それでも名家リビエラ伯爵家の嫡子か?」

 だがシュバルツは、アドビスの顔を呆然と見つめながら、わなわなと唇を震わせている。


「……」


 アドビスは溜息をついた。

 何分、人と話す事が苦手なので、副長を励ましてやれる気の利いた言葉が浮かんでこない。仕方なくアドビスはシュバルツの前に歩み寄り膝をつくと、げっそりしながら彼の肩へ手を伸ばした。


「生きてるぞ。私も、お前も。ほら、手を掴め。立ってみろ」


 けれどシュバルツはアドビスの手を振り払った。


「私にさわるな! 亡霊め! 魔女に魂を魅入られ、我々を海の墓場へ引きずり込んだくせに!」

「……なに?」


 アドビスはシュバルツが何を言っているのか理解できなかった。

 やはり副長は極度の緊張が続いたせいで、神経が高ぶっているらしい。


「シュバルツ、落ち着け。お前は死んではいない。我々は助かったんだ」


 アドビスは辛抱強くシュバルツに呼びかけた。

 けれどシュバルツはやおら立ち上がり、アドビスに向かって罵声を浴びせた。


「うるさい! 私は見たんだ。海の中で、あのリュニスの女が大渦の真ん中に立っていたのを。船を渦に引きずり込もうとしていたのを! だからレナンディ号へ乗せたままにしておけばよかったんだ。そもそもあの船を発見した時からおかしかった。不気味な霧を纏わせて、あの船は我々の前にいきなり現れた。あの女は、あの魔女は、私達を海に引きずり込むために――きっと……」

「シュバルツ、貴様。何の根拠があってそんなことを!」


 アドビスは濡れぼそったシュバルツの襟飾りを掴み、それをぐいと自分の方へ引っ張った。


「お前が海に沈む恐怖で狂うのは私の知った事ではないが、あのひとを――彼女の事を何も知らないくせに、そんなことを言うのは許さん!」


 ふ……。

 シュバルツの青ざめた唇が嘲笑で歪んだ。何か面白いものをみるようにアドビスを真っ向から睨み付ける。


「ほう……。艦長があの女の何を知っているのかは知りませんが、私だって、知ってますよ。シグルスが言ってましたからね。あの女は『海神の巫女』だと。人間の魂を海神に捧げるため、嵐を呼び寄せ船を海に沈める――恐ろしい女だと」


 アドビスはシュバルツの胸倉を掴んだまま、水色の瞳を細める副長の顔をにらみつけた。


「海賊のたわ言など私は信じない」

「は、はは! じゃあその目でみてみるがいい! もっとも、エルシーアの金鷹は海賊船しか目に入らないでしょうがね」


 シュバルツの目が勝ち誇ったように輝いていた。

 彼は血の気の失せた青白い顔に怯えを見せたまま、かちかちと歯を鳴らしながら、それでも唇を引きつらせて笑っている。そしてゆっくりと何かを指すように金の指輪をはめた右手をあげた。


「……何?」


 副長の行為が理解できない。ぎりとアドビスが奥歯を噛みしめた時だった。


「おい、あそこを見ろよ!」


 アドビスの背後――メインマストがある船の中ほどの甲板から声がした。

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