【16】呼び声

 ◇◇◇


「姉さま……リュイーシャ姉様」


 リオーネの声が薄暗い船室の中で心細そうに響いた。


「何? リオーネ。私はそばにいるわ」


 船の揺れに合わせて左右に振られるハンモックの中でリュイーシャは返事をした。


「風が『さみしい』って――いてる」

「……そうね。私も聞こえるわ」


 リュイーシャは手を伸ばして上掛けから出たリオーネの小さなそれを握りしめた。窓から差し込む薄明かりが、リオーネの顔色をいつもよりずっと青白く病的にさせている。


「お船もすごく揺れてる」

「そうね」

「姉さまは……怖くないの? お船、時々海の中に突っ込んでいるみたい」


 その時フォルセティ号が不意に誰かに持ち上げられ、ぱっと手を離したかのように落下するのをリュイーシャは感じた。

 海に船が叩き付けられたのか、地響きのような振動が襲ってきた。

 同時に板が割れるような高い音。がしゃんがしゃんと積荷がぶつかりあう音。何か動物がうなり声をあげるように、遠く引っ張るような重々しい音。

 それは嵐に立ち向かうフォルセティ号が漏らした苦悶の呻きのようであった。

 リュイーシャはリオーネのハンモックをつかみ、激しい横揺れで振り落とされまいと必死にしがみついた。


「姉さま! 姉さま!」

「大丈夫。じっとして」


 けれど船の揺れは収まるどころか一層ひどくなり、まるで袋の中に閉じ込められて上下左右に激しく振られているようだった。

 リュイーシャは気分が悪くなった。目の前に星がちらつく。

 そこで足を床に伸ばし、船の揺れにあわせてハンモックから降りた。リオーネのハンモックにしがみつくようにしてすがりながら、「さ、リオーネ。あなたも降りて」と声をかける。


 妹はリュイーシャの首筋に腕を回して、暴れ馬のように揺れるハンモックから無事に降りた。けれどフォルセティ号の揺れは収まらない。


「嫌な嵐。青の女王様の救いを願いながら、この世に残した想いが強すぎていつまでも浄化されない哀れな魂――」


 リュイーシャはリオーネの頭に腕を抱え、船室の片隅にうずくまった。


「やだ……私達を呼んでない? この風」


 がちがちと歯を鳴らしてリオーネがつぶやいた。やわらかな白金の髪が寝汗に濡れた白い額にいく筋も貼り付いている。


「風が言ってる。迎えに来たって。連れていくって」

「リオーネ」


 リュイーシャはリオーネが身じろぎをしたので、頭を抱える腕から力を抜いた。妹は風を操る力はもたない。けれど、リュイーシャ以上に風が伝える意思を聞く力を持っている。


「そんな。嫌、嫌よ」


 体を震わせていたリオーネが不意に大きな叫び声を上げた。

 リュイーシャも自分の胸を打つ鼓動が一瞬止まったかのように、目の前の薄闇をじっと見つめた。



 ――連れていくよ。

  みんな連れていくよ。

  こわがることはない。

  そんな木の棺から飛び出して、私と共に空を駈けよう。

  苦しいのは一瞬だけ。

  そのあとは私が連れていってあげる。

  光り輝く自由な世界へ。



 轟音と共に空を青白い閃光が走った。

 窓に激しく波がぶつかり硝子がびりびりと震えた。

 フォルセティ号が再び大きく上に持ち上げられる。高く高く持ち上げられる。

 稲光の空と、青く灰色の混じった海の位置が逆転した。


 ドン。

 ドン。


「リオーネ。私にしっかりつかまっていて」


 リュイーシャはリオーネの頭をぐっと抱え込んだ。

 青く無気味に光る空には、からからと笑い声をあげる悪霊達が何体も白い霧のような姿をまとって飛び回っていた。

 彼等が吐き出す魔詩(まがうた)と作り出す風のせいで、海には大きな波の柱が何本もそびえている。 フォルセティ号もまた、巨大な波柱のてっぺんまで持ち上げられていた。


「姉……さま」


 それを見たリオーネが絶句する。

 みしみしと船室が軋む。部屋が徐々に前方へ傾いていく。

 巨大な波柱のてっぺんまで持ち上げられたフォルセティ号が、今度は一気に波の谷間めがけ、海面めがけ滑り落ちていこうとしているのだ。

 突如部屋の床が垂直の壁のように傾いた。


「きゃあああ!」


 リュイーシャとリオーネは抱き合ったまま床を転がった。

 そして出入口の扉に押し付けられるようにしてぶつかった。衝撃に息が詰まり、意識が遠のきかけた時、硝子が砕ける音がして一気に青白い海水が部屋の中になだれこんできた。



 ――連れていこう。

  海の中は冷たくて寂しいから。

  だから、私達と一緒においで。


 からからと風の笑う声が聞こえる。


 リュイーシャはリオーネを抱えたまま、必死で部屋の扉を叩き続けた。

 ここを出なければ溺れてしまう。

 フォルセティ号が波に飲まれたということはわかっていた。かの船は舳先を下にしたまま海底に向かって一直線に沈んでいこうとしている。


 その時、誰かが腕を引っ張った。

 暗い闇の中で、リオーネの青白い顔がかろうじてみえた。


『姉さま、上を見て』


 そう呼びかけてきた妹の心の声に、リュイーシャははたと我に返った。

 そう。この海水は船尾の窓が割れて入ってきたものだ。

 リュイーシャはうなずいて、リオーネの手を握りしめて上にと泳ぎ出した。

 けれど夜の海は身も凍るような冷たさと漆黒の闇に覆われていた。


 何も見えない。

 リュイーシャは何度も何度も水を掻いたが、何故だか一向に上に向かってあがっているという感覚がしないことに不安を覚えた。

 まるで誰かがリュイーシャの足を掴んで下に引っ張っているようだ。

 上にいくどころか、反対にずるずると下へ下へと引っ張られる。

 一体、誰が。

 焦ったリュイーシャの耳に声が聞こえた。

 悪霊と成り果てた者達の乾いた声が。



 ――どこにいく?

  悲しみの淵に溺れし哀れな娘よ。

  そなたの抱える悲しみは深すぎて、もはや浮かび上がる事は叶わぬ。

  もう少しの辛抱だ。

  そうすれば私達が連れていく。

  そなたの大切なものたちと一緒に。

  自由で悲しみのない世界へ。

   


 リュイーシャは唇を噛みしめた。

 私のせいだというの?

 私の抱える悲しみ、嘆きのせいで、お前達は惹かれてやってきたというの?

 そしてアドビス様の船を沈めたというの――?



 熱い憤りがリュイーシャの胸の奥から湧き上がった。

 高ぶる感情と呼応するかのように、右手に帯びた海神の指輪が青白い光を放つ。

 突如、リュイーシャの体を取り囲むように気流が発生した。

 上へ。

 気流はやがて巨大な水の竜巻となり、フォルセティ号を瞬く間に包み込んだ。


 ――青の女王さま。

  あなたが今私の魂を望まれるのならどうぞお召し下さい。

  けれど……。


 気流の中心でリュイーシャは、青い閃光を放つ指輪をはめた右手を高々と差し上げた。

 胸にただ一つの思いを抱いて。


 

 ――けれど、私の大切な人達は守ってみせます。



 水の竜となった竜巻はリュイーシャにまとわりついていた悪霊を巻き込み、フォルセティ号を海面へと一気に押し上げる。

 これで大丈夫だ。船は風の力に乗って浮き上がるはず。

 リュイーシャは風を操りながら、その光景をじっと海の中から見つめていた。

 一片の光も射さなかった暗き海面に、今はぼんやりとした淡い光が満ちている。


 ――こちらにおいで。


 リュイーシャを招くように、いく筋もの光が海の中に差し込んでいる。

 光はとても温かく、呼び掛ける声は潮騒が混じった母の声に似ていた。

 リュイーシャの体は自然とその光に導かれるまま、上へと上がっていった。

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