吾輩はあなたの猫である

叩いて渡るほうの石橋

吾輩はあなたの猫である

 吾輩は猫である。名前はしかとあるが、名の由来など吾輩には知り得ない。人間の言葉の詳しい意味までは理解できぬ。


 吾輩は物心ついたときには店という場所にいて、たくさんの人間を見てきたし見られてきた。そこには吾輩の仲間以外にも動物が多くいた。


 とある日に店からひとりの人間の家へ連れていかれ、その人間と生活している。あとで聞くと吾輩と共に暮らす人間はおばあちゃんというらしい。しかしここがわからぬのだが、幼い子供らはおばあちゃんと呼ぶのに、その子らの母らしき人はおばあちゃんをおかあさんと呼ぶのだ。おばあちゃんは二つも名を持つのか。それは凄いことなのだろう、きっと大きな縄張りを握っているに違いない。


 素晴らしいおばあちゃんは大きな家に吾輩とだけで暮らしている。人間からしたらその偉大さ故なのだろうか、近寄ることすらも恐れ多いのだろうか、なかなかおばあちゃんを訪ねる人はいない。おばあちゃんの家族でさえ一年に一度ここを訪れるくらいだろう。また、おばあちゃんは足や腰が痛むようで外にもほとんど出ない。


 ひたすら吾輩といるのである。


 おばあちゃんはしばしば、おじいちゃんという人間の話をしてくれる。おじいちゃんは戦争に駆り出されたらしく、また戦争では多くの人間が死んでしまったらしいが、当のおじいちゃんは命辛々帰ってきたようである。その後人を殺めるのはいけない、命はただそこにあるだけで尊いのだと医者というものになったと聞く。


 実のところ吾輩はこの話の半分もわからぬ。ただ、おばあちゃんが話しているときの宝石のように透き通った目や布団の如く柔らかな雰囲気などから察するに、おじいちゃんとやらは人間の尤なるおばあちゃんが尊敬するほどの立派な人物なのだと思う。


 吾輩がこの家に来たときからずっと、おじいちゃんは動かぬ一枚の紙のような物の中に入り込んでいる。その紙の安置される周囲は重みがあり、煌々としつつ荘厳。おばあちゃんは朝起きると必ず紙の前に座り、不可思議な音色の鉦を鳴らして目を瞑る。深々とお辞儀をするように。祈るように。


 しかしそれも、全ては昔の話。


 季節が二回りはしただろうか。ある夜、おばあちゃんは家を出ていってしまった。その頃のおばあちゃんは口数が少なくなりおじいちゃんの話もあまりしなくなっていたし、時たま話しても何処かぼやけているようだった。


 その夜、おばあちゃんは深夜に起き上がり鍵を開けた。何か用事かと思った吾輩は──違うな、本当はわかっていた。明らかに挙動がおかしいこと。記憶の衰えが見えることや話がたどたどしいこと。そして、もう帰ってくることがないのではないかとの考えが吾輩の頭を横切ったときには、おばあちゃんはドアの向こうにいた。吾輩は怖くなって泣き叫んだがおばあちゃんにこの声が届いていたのか、今となっては確かめる術もない。


 何だろうか、あの日に触れていると胸に無数の針が刺さるような痛みに襲われる。いいや、これも真実を知っている。恐らく吾輩は死期が近いのだ。雨のひとつぶが当たったとしてもこの身体は壊れてしまいそうだ。もう、そこまで死は来ている。死の神は今か今かと吾輩の首に鎌の刃を当てている。


 嗚呼、おばあちゃん。すまない。吾輩はあなたがここに戻ってくるまで家にいなければならぬのに、もう逝ってしまいそうだ。吾輩にはわかる。


 おばあちゃん、吾輩に良くしてくれたな。店で吾輩を一目見て微笑んでくれたときは何とも言えぬ嬉しさであった。捨て猫でもなく幼い時期を人間の手で育てられたのは己でも良い身分だったと思う。しかしその人間たちのことは既に覚えておらぬ。吾輩の記憶は、箱からゆっくり取り上げられ、しわだらけの手で抱かれたあのときからおばあちゃんの優しさと温もりでいっぱいなのだ。それからずっと、毎日まいにち飽きもせずあなたと共にいた。吾輩はこの楽しい日々の恩を少しでも返せただろうか。これについてはさっぱりわからぬ。


 何故だろう、だんだんと刃は首に食い込んでくるのにおばあちゃんに近付いている気さえするのだ。少しずつ、くっきりとあなたの輪郭が見えてくる。


 懐かしい匂いだ。


 懐かしい声だ。


 懐かしい温かさだ。


 おばあちゃん。


 これは吾輩の推測だが隣におられるしわくちゃの男性こそが例のおじいちゃんだろう?すぐにわかる、おばあちゃんと同じ、柔らかそうな人間であるからな。


 おばあちゃん、何と言っているかわからぬよ。もしや涙ながら吾輩に語っているのか。何を泣くことがあろうか、こうしてまた会えたではないか。


 吾輩は、生きていて良かったよ。

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吾輩はあなたの猫である 叩いて渡るほうの石橋 @ishibashi

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