二十五. 灯明の道しるべ⑱
それでも、
襖を閉めてふたりきりになった直後に、
かわらず沖田の硬い腕が冬乃の背にまわって、冬乃は深々と抱き締められた。
これだけは昔のままでいてくれるのだと、
寂寥もせつなさも綯い交ぜになったままの安堵が、冬乃の胸内を急速に拡がり。冬乃は目の前の温かな胸板へ、限界にまで頬を寄せて縋りついた。
あの時から沖田が己の心に張り巡らせた箍を、もはや冬乃がはっきり気が付いているのか如何かは分からない。
だが泣いていた様子で戻って来た夜から、恐らくそうではないかと沖田は想像してはいた。
(すまない)
何度繰り返したか分からぬ想いを沖田は、今また声に乗せぬ侭、胸内に呟いていた。
冬乃は、此処の世に居続けたいと願っているというのに。
それもきっと二人の関係のはじまりから、とうにこんな時世など、覚悟の上で。
それでも己は反して冬乃に帰るよう願い、冬乃は聞き入れてくれている。
沖田の側の勝手な我儘も同然の、この願いを。
己がこの先は、傍に居て護ることも幸せにすることも叶わぬのなら、
冬乃には只々、無事に、生きていってほしいと。
そしていつかはまた、幸せだと笑えるようになってくれたなら。
かつて此処の世でそれを望み、冬乃に遺そうとしたあの頃が、
自身で酷く羨ましくも、そしてほんの数年前とは思えぬほど遠くに感じる。
あの頃の、己がいつ死んでも、冬乃が近藤の実家の庇護下で生涯困らぬように、
そして叶うなら、己との子や孫に囲まれ幸せに生きていってほしかった思いが。
「・・総・・司、さん・・」
不意に零された冬乃の声は、あまりに寂しげな音色を帯び。
沖田は腕の中を覗き込んだ。
―――離れたくない
冬乃は、
抱き締められるうち、今ふたりがまだ許されるなかで最も近いこの距離からも、やがては離れる時が来るを、恐れて震えはじめてさえいる自分に、
今こうしていても、その強烈なまでの喪失感、絶望感に覆われはじめている心内に、驚愕して。
もう永遠にこのまま離れず、腕の中に居させてほしいと、
不可能な願いを心の底から本気で口にしてしまいそうで、
気づけば、思い詰めた声が零れてしまっていた。
この世界がこのまま止まってしまえばいい
何度、祈ったことだろう。
(ほんとうに、・・もう、)
「・・・無い・・んです・・・」
茫然と冬乃は声を零したまま俯いた。
貴方を喪っても、
この記憶だけで
生きていける自信が。
あれほど、次世での魂の再逢に、真の永遠の誓いに、
一度は希望を見出せたはずが。
このいまの瞬間も、確かに、その希望があるからこそ救われている。
なのに何故いま、
この現世で、その時を迎えるまで待ち続けていられる自信が、粉々になってゆく絶望をも同時に感じてしまうのか。
また沖田の腕を離れた刹那に、あの疎外感の凍える壁が、冬乃を覆うのだろう。
早まっているその再来は、
冬乃を怯えさせる。あと数月のうちに、それが二度と超えられない壁と成る日の来るを今から思い知らせるように。
「・・今、何て言った?」
冬乃は顔を擡げた。
沖田の心配そうな眼とかちあい。
「何かが、無い、と聞こえた気がした」
貴方を喪った後
生きてゆく自信が無い
もうそんなことを、
再び彼に言ってしまえるはずがなく。
冬乃は、心の声を再び漏らしていたことに、今さら困惑して首を振った。
「・・離れたく・・ない、って言いました・・」
「・・・」
嘘を言ってはいない。
これが冬乃の心にいま、最終的に鬱積して止まない想いなのだから。
それでも何か感じ取られたのか。
沖田が黙って只、顔を伏せた冬乃を再び抱き寄せた。
ふたりはそれから、
束の間でも時が止まっているかのように。
長くそのまま身を寄せ合っていた。
沖田が、
つと近藤の気配に、冬乃の身をそっと離すまで。
「総司、此処か?」
冬乃も襖を見遣れば、
沖田が短く返事をしながら開けた。
「部屋を別に取りに行ったと歳に聞いて・・お、やはり冬乃さんも一緒か」
冬乃が恐縮して頷く前で、近藤が嬉しそうに微笑む。
「丁度良い部屋が空いていて良かったな」
「はい」
それへ沖田がにこやかに頷いてみせる。
「歳は文句を言いそうだが・・、さすがに旅籠なんだから、いいさ」
歳が文句を言ってもここは任せとけと、言わんばかりに近藤がその四角い顔を今度は大きく笑ませた。
「で、本題なんだが、」
近藤がそして一呼吸を置いて。
「明日にでも、江戸御城へ参上致すことになった。おまえも一緒に来てほしい」
(江戸城・・)
冬乃は、近藤のなぜか感極まった様子の表情を見つめた。
「おまえと歳と、三人で行きたいんだ」
近藤が、そう言う理由に、冬乃はすぐに思い至った。
もう身分など在って無いような世になってしまったとはいえ。
幕府直轄地“天領” である多摩の地に、農民の子として生誕し、徳川を主君と仰いで生きてきた近藤が、
京都での働きを認められ、遂には江戸城へ参上できるほどの身の上の、まごうことなき武士の身分と成って、この地に戻って来たのだから。
皮肉にも近藤の生まれた世が泰平の世であったならば到底、成し得なかった事だった。
(近藤様・・)
それでも、遂にこんな時世にまで堕ちることなく、泰平の世が再来したうえで此処へ戻ってこられたなら、どんなにか良かっただろう。
きっとそうして複雑な想いを懐きながらも、江戸城へと、
近藤をこれまでずっと支えてきた“戦友” である土方と沖田と共に三人で、登城したいと、
近藤が胸内に懐くは、至極当然で。
「光栄です、先生」
近藤の想いを勿論わかっている沖田が、やはり嬉しそうに答えた。
「よし・・早速これから明日の流れを決めておきたい。俺の部屋に来てくれ」
「はい」
行ってくるよと冬乃を振り返った沖田に、冬乃は行ってらっしゃいませと微笑み返した。
廊下を戻って土方の部屋の前で呼びかける近藤を、見ながら冬乃は、そっと襖を閉めた。
近藤と沖田の今のやりとりで、冬乃の心の内は温かく灯されども、
心のまわりには既にまるで纏わりつくかの、此処の世との見えない壁の冷気が、冬乃をぶるりと凍えさせて、
沖田の温もりが消えた己の肩先を、冬乃は咄嗟に両手で摩った。
そういえば火を熾していなかったことに気がつき。
心のみならず体も覆っている冷気に、
共につい先程までの温かな腕の内に居た時とは、あまりに激しい差を思い知らされ、冬乃は溜息をついた。
(そうだ、荷物もいれなきゃ・・)
急いで火を熾した冬乃は、廊下へ出る。
近藤たちと冬乃の各人の荷物は、二階廊下の端へと、宿の使用人によって既に船から運び込まれてあり、
冬乃は見慣れた自身の行李を、沖田のと思しき行李の横に見つけた。
何度か往復して、沖田の分や文机も一緒に部屋へと運び込み終えた頃、体の寒気ならば消えてくれていて、
冬乃は幾分ほっとしながら、部屋を改めて見回した。
目に留まった、光の降り注ぐ窓へと、冬乃は自然に近寄る。
眼下には、なんと枯山水の庭が広がっていた。
海側ではないものの、こうして窓の外に庭園を見下ろす雅趣な造りに冬乃は感動して、砂の紋様が幾つも優美に波打つさまを暫し見つめた。
(・・?)
不意に視界の端を動いた影に、冬乃が目を遣ると、
庭園を囲う建物の屋根の一角に、二匹の猫が居た。黒と三毛の組み合わせで。
傍の松からなのか、今しがた飛び乗ってきた様子だった。
日の当たる場所をちょうど選んで其処に居る二匹は、それでも少し寒そうに身を寄せ合いながらも、
まるで景色を眺めているかのように、じっとどこか遠くを見つめている。
やがてはそのまま安心したようにくつろぎはじめて、
そういえば海沿いの空には、成猫の天敵となるような猛禽類の鳥はそうそういないのかもしれないと、冬乃はほっと息をついた。
(・・あ)
さらにその向こうに生じた動きへ目を向ければ、
旅籠を囲う塀の先、緩やかな坂の勾配がために冬乃の位置からも見えている公道に、人が出て来ていて。
よく見れば、島田と永倉だった。
あいかわらず力士のようにぷっくりとした島田と、彼と並んではやたらと小さく見える永倉の、二人の対比が冬乃の目を引く。
二人は、京に出る前の江戸の頃から仲が良かったと聞くので、もしかしたら久々の江戸を堪能すべく、昔馴染みの店へ飲みにでも出かけるのだろうか。
歩んでゆく永倉たちとすれ違う、物売りの呼び声は、もうじき迎えるかき入れ時の夕刻に勇んで此処まで聞こえてくる。
視界の手前では、猫が大きなあくびをして。
空は、どこまでも果てしなく澄んだ碧。
此処でも、とても戦さの合間とは思えない平和な光景が、冬乃の前に広がっていた。
もとい江戸に来た時から目に映るすべてが、そうで。江戸はまるで、泰平の世のまま。
京阪での惨状が、幻であったかのように。
(・・ちがう・・今は取り戻しているだけ・・・)
今は平和に戻っている此処江戸でも、つい年末までは薩摩の暴虐によって惨劇が続いていたではないか。
その事を次には冬乃は思い出し、
冬乃は、深く溜息を落とした。やるせなさに覆われながら窓から離れ。
何かをしていないと気が滅入りそうになり、冬乃は、行李に入れたまま使うので大して必要はないものの、とりあえずの荷ほどきに取り掛かることにした。
「もう風呂に行く?」
戻って来た沖田が、
行李の運び込まれている事に冬乃へわざわざ礼を言ってくれながら、冬乃の行李の上には風呂用の着替えが既に準備されてあるのを見て尋ねてきた。
冬乃はどきりと顔を上げるも。次には遠慮の想いに押されて、首を横に振った。
今の時間では、隊士達がそろそろ使い始めている頃ではないだろうかと。
だが冬乃のそんな心配は聞かずと判ったらしい沖田が、
「此処は女風呂が元々あるところを俺らで男風呂共々使わせてもらっているわけだし、気にしなくていいよ」
“取り返す” だけだと、沖田が何でもなさそうに笑う。
本当は一刻も早く風呂に入りたい冬乃の思いをも、当然のように判ってくれていた様子で。
「俺も入りたいし、」
(え)
けど何の気もなしに落とされたかの、続いた台詞には、冬乃は今度こそ心臓を跳ねさせて沖田を見上げていた。
「ついでに俺も一緒に入らせてもらうよ」
沖田が何を考えているのか、あいもかわらず掴めない。
旅籠の者に聞いてあった風呂場の在るほうへと、向かう沖田に続きながら、冬乃は鬱々として、胸元の着替えの風呂敷包みを抱き締めた。
もう沖田は一糸纏わぬ冬乃と過ごしても、そういう気分にもならないということだろうか。
ふたりきりのそんなひとときが辛いと思っていたのは、じつは冬乃だけだったのか。
「・・まだ誰も居なかったか」
つと安堵したような声が呟かれ、
冬乃ははっと向こうに迫った風呂場を見遣った。
利用者の居る気配が無いということだろう。
それには冬乃もほっとしながら、
まもなく沖田が、先ほど部屋を出る前に用意した『使用不可』と書いた人払いの紙を、戸の前で石の重しの下に置くのを見守る。
戸を開ければさっそく、溢れんばかりの湯気が二人を出迎えた。きっと宿の者が沸かしてくれたばかりなのだろう。
脱衣所では格子窓からの光粒が、そんな湯気を緩やかに煌めかせている。
その光景は、
いつかの、稽古のあと二人で初めて昼下がりに風呂場へ入ったあの時や、二人の非番の日に一日じゅう家で過ごしていた時を、
その懐かしい日々を、刹那に思い起こさせ。
冬乃は襲ってきた悲しみに圧されて、咄嗟に光の窓から目を逸らした。
冬乃の横では沖田が常に違わずさっさと脱ぎ始め、冬乃は戸惑ったまま、せめて褞袍だけでも脱ぎ始めたものの。
どうすれば、心惑わずにこの先を遂行できるというのか。
否、無理に決まっている。
冬乃は胸内で嘆息しながら、
気づけば横で既に最後の褌だけになった沖田から、慌てて顔を背けた。
けれどそんなあいかわらずの冬乃に、ふっと微笑う息が聞こえ、
背けているはずの視界を、次には沖田の太い腕が過ぎり、
あっと思った時には冬乃は、直に彼の温かな肌を、頬に受けていた。
(総司さ・・)
抱き締められて、逞しい胸筋を頬に深々と受けたまま、一気に冬乃は緊張と安息の相反する感覚に、常の如く覆われる。
彼の心の臓の音も、冬乃の鼓膜に届いてきて。
「・・あの頃に戻っただけだと」
そんな折に、つと直に頬へ響いた、
「己に言い聞かせることにした。」
吹っ切れたような声音が。
(え・・?)
冬乃の顔を擡げさせた。
腕の中で見上げてきた冬乃を。
沖田は、先の部屋で長く冬乃を抱き締めながらやがて腹に決めてしまった思いに正直に、今一度腕の力を強める。
「この先ずっと」
唯、服の上から抱き締めるばかりでは。
「冬乃に、とにかくふれないようにしているほうが、しんどい」
冬乃が瞳を揺らして、じっと沖田をみつめてきた。
沖田の言わんとする意味を確かめようとしているかのように。
「・・気づいているだろうけど」
沖田は敢えて前置いた。
「俺は冬乃を、帰すと決めてから、」
「この先に身籠らせてしまう可能性のある一切を、断っている。だが、」
そうして、ひとつになることはもう叶わずとも
互いの肌のぬくもりすら断つことはない
「思い直した。冬乃と共に居られる猶予は数月だというのに、その残りの時間を、もうこの侭ろくにふれあうことすら無く過ごすなど・・愚かな事だと」
たとえ、
ふれあえばふれあうほど
そうして互いの想いが高まるほど、
抑える辛さもまた強まろうとも。
「・・尤も冬乃が、それでもいいと、言ってくれるならばだが」
「私は・・」
潤んだ瞳がまっすぐに沖田を見返した。
最も近くまで、限界まで近づきたい
かわらぬ想いは冬乃を苛むまま。
冬乃は、答えを待ってくれている沖田を見上げながら、
ずっと懐いてきた直観を、
此処の世に帰属など許されていない冬乃が、そもそも子を授かる事はきっと無いのだと、
そんな直観を、彼とまた一番近くまで近づきたいがために今すぐ口奔ってしまいそうになる衝動を、懸命に抑え込んで。
「私は・・それでも」
声に圧し出す。
あとほんの少しでも近づけるのなら、
そうして互いを隔てるものが無ければ無いほど、
「嬉しい・・です・・」
決して偽りではない想いを。
答えた息が途切れるよりもまえ、降ってきた深い口づけに、冬乃ははっとして目を瞑った。
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