一八. うき世の楽園⑬




 季節はすでに入梅直前の初夏だというのに、風邪をひいたらしい冬乃は。

 

 半分ほど開けられた縁側から、緩やかな風が時折すべりこむ沖田の部屋の、布団の上で。

 

 このままこの部屋で面倒を看てくれるらしく、冬乃の部屋から着替えを持ち込んだ後、布団の横で座り込んでいる沖田と、

 

 話を聞いて白湯を手に看病に来てくれた後、それみたことかと沖田に剥れた眼差しを投げている藤堂との間で。

 

 目を回していた。

 

 (なんで)

 

 あれから沖田に服を着せられてここまで運び込まれ、布団に横たえられた頃には全身から噴き出すような高熱と、眩暈、喉の嗄れと関節の痛みまで起こり始めて、

 

 そのただの風邪には到底おもえない自身の症状に、もはや冬乃は混乱していて。

 

 

 おもえば稽古の終盤からなんとなく熱っぽさとだるさはあったものの、稽古の疲れだとばかり思っていた。たしかにそれまでは何も無かったのだから。

 

 (こんなに急な症状、これって・・・)

 

 

 インフルエンザ

 

 急激な高熱、全身の倦怠感。鼻や咳の反応よりも先にくるその症状は。以前にも冬乃が平成の世でかかった時と、今とで、よく似ていて。


 なにより、冬乃の普段の風邪のひきかたとは明らかに違っている。

 

 

 (でも、インフルだとしたら、なんで)

 

 

 一番そばにいた沖田も、まわりの幹部たちも皆、まったくといって何か病にかかっていた様子は無い。

 

 とすれば、冬乃が最初ということなのだろうか。

 

 (・・まさか平成から持ち込んだり・・しちゃったの?)

 

 

 冬乃はぶるりと、もう何度目かの悪寒に重ねて身を震わせた。

 

 

 (だけど・・)

 

 平成にいた時も、まわりにインフルエンザどころか風邪すら、かかっていた人などいなかったではないか。

 第一、平成では真夏、インフルエンザに限らず多種の風邪ウイルスが、最も感染力を落とす季節で。

 

 

 (なのに、どういうこと・・・)

 

 

 「もっと早く気づいてやれなくてごめん」

 

 冬乃の額の手ぬぐいを替えながら、沖田がひどく心配そうな表情で冬乃を見下ろした。

 

 「ちが、います・・」

 冬乃は苦しい息のなか、必死にそんな沖田を見上げた。

 

 「きっと、潜伏期間が、あって、・・さっきまでは確かに、普通に元気だったんです・・」

 

 「・・潜伏期間?」

 沖田と藤堂が顔を見合わせて、冬乃は、あっと息を呑む。

 

 この時代、ウイルスという概念は未だ無い。潜伏期間に関しても何のことやらだろう。

 この病自体が、

 世間では通常の風邪とは違う恐ろしい流行り病として認識されるのみで、インフルエンザという語とともにもう少しだけ委細を認知しているのは、未だ蘭方医ぐらいだ。

 

 

 

 (あれ・・・たしか)

 

 もし本当にインフルエンザであれば、すでにもう冬乃は、他人に感染させてしまう状態なはず。

 

 「あ」

 冬乃はとたん慌てた。

 

 「うつらないように、どうか、私を隔離し・・」

 「何言ってるの」「そんなのは考えなくていい」

 

 言い終わる前に二人に同時に遮られて、冬乃は目を見開いた。

 

 「でも、きっと私は今・・・」

 なんていえばいいのか。たしかこの時代に呼ばれていた名が幾つかあったはずなのに。

 (浮かばな・・いけど、)

 

 「強い風邪、かもしれないんです、ふつうのじゃなくて・・だから」

 

 「なら、うつるんだったら、とっくにうつってるんじゃない?」

 藤堂がけろりと微笑った。

 

 「ああ」

 沖田が合わせて頷く。

 

 (え、そんな)

 

 「いいからもう黙って休む」

 「そうだよ、喋るだけでも疲れちゃうんだから。安静にしてなきゃだめだよ」


 (・・うう)

 

 今度はこんな時のために、感染拡大を防ぐ特殊マスクでも未来から持ってきたほうがいいかも。

 冬乃はそんなことを考えてしまいながら、

 いまなお不可解なこの病に、眩暈のなかで溜息をついた。

 

 (ほんとに、なんで)

 

 

 視界の端の、障子の向こうに広がる晴れた空は、そんな冬乃を嗤うよう。

 

 (今日は総司さんと、いろんなことしたかったのに)

 一緒にいたいといっても。こんなかたちで一緒にいたいわけじゃない。

 

 (うつしちゃったら本当にどうしよう)

 

 

 「・・・あ」

 

 つと、藤堂が驚いたような声を出した。

 

 「豚が来てる」

 

 (え)

 熱で朦朧と閉じかける瞼に抗いながら、つい庭先に目を遣れば、

 今回はきちんと群れでいる豚たちが、目のまわる視界にぼんやり映った。


 (・・・て、・・豚?)

 

 

 まさか。

 

 

 

 冬乃はおもわず沖田を見上げた。

 視線を受けて冬乃を見返す彼は、やはり全くの健康体にみえる。

 

 

 おもえばあのとき。

 

 あの子豚は、ときどき小さなくしゃみをしていた。

 

 (あれって・・・)

 

 

 子豚を抱いていたのは沖田だが、彼の横に並んだ冬乃の顔はちょうど子豚の顔の位置で。

 

 ひくひく鼻を動かしてこちらを見つめる潤んだ瞳に、その可愛らしさに、冬乃もついつい子豚の頭を撫でては、

 

 子豚の鼻息が、ときに鼻先が。幾度となく冬乃の顔や、風で流れた髪を撫で返したのは・・・覚えている。

 

 

 

 (ブタインフルエンザ、だったら)

 

 

 豚から人へうつることは稀なはずの、このインフルエンザウイルスに。

 

 まさか侵されるとは。

 

 この自己診断が確かに合っているとしたら、

 冬乃がもしかしたら豚から感染した“日本初” の患者ではないか。

 

 時代を超えてこんな奇跡まで起こっても、当然に冬乃は嬉しくない。

 

 

 (でも、じゃあ)

 冬乃がかじった知識を掘り起こすかぎり、

 

 これより五十年ほど後に人間に大流行するインフルエンザ型をおそらく由来としたものが、豚間にも発見されて、

 そのときのブタインフルエンザが、豚間で平成に至るまで継承されてゆくことになるのだが、


 どうやらその発見より遥か前から、なにかしらのブタインフルエンザが存在していたということになる。

 

 (て、発見されようがなかっただけで、当然といえば当然だよね・・)

 そもそもの、全てのインフルエンザの先祖は、鳥由来のインフルエンザだと。冬乃はどこかで読んだ記憶がある。

 あの子豚に辿り着くまで、どのインフルエンザがどんな経路をたどったのか、冬乃には想像もつかないけれど、

 

 豚の間で受け継がれてきただけのブタインフルエンザならば、人から人へ感染させる力は微弱なはず。

 

 冬乃から誰かへうつす可能性は、ほぼ無いと思っていいだろう。

 

 

 

 やっと少しばかり安堵しながら、冬乃はぐらぐらと揺れる視界を漸く閉ざした。重い瞼は、それからもう到底、開きそうになく。

 

 

 まもなく冬乃は深い眠りへと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (ここは・・どこ)

 

 

 ぶひー

 

 (え)

 悲しげな豚の声に冬乃はあたりを見回す。

 

 どこもかしこも、あたり一面ピンク色である。

 

 

 ぶひーー

 

 どこからか断続的に聞こえてくる、というよりも響いてくるこの声は。

 

 「侵入成功だわ!はじめっから風邪っぴきなんてラッキー!」

 

 突如の、背後からの雄叫びと重なった。


 驚いて振り返った冬乃の目に映ったのは、

 真っ白な光を放ちながら揺らめく、ツノだらけの丸い生き物。

 

 (て、アレ・・生き物?)

 

 

 向こうも、冬乃を見て驚いたようだった。

 

 「あんた、誰よ?!」

 「え」

 

 「出ていきな!!」

 

 (そういわれても)

 

 「すみません。ここはどこですか」

 

 「はあん?!」

 その生き物は、素っ頓狂な声をあげた。

 

 「知りもしないで入ってきたの?ばかね!!」

 

 (う)

 

 ぶひーーー

 

 再び辺りに響いた悲しい豚声に、冬乃はますます混乱する。

 たとえばドームの中にいて、全体に反響するかのような音なのだから。でも、それじゃまるで・・・・

 

 

 「わらわたちは、豚の中にいるのよ今!!」

 

 

 うそおマジなの!?

 

 「あんた、もしかして人インフルね!!」

 

 「へ」

 さらなる謎な台詞を受けて、冬乃は目を瞬かせた。

 

 「たかが人インフルの分際で、わらわの邪魔をしようっての?身の程わきまえな!!」

 

 「そういうあなたは何なんですか・・」

 

 「わらわは、インフルの王者の血統、鳥インフルよ!・・て、なんかあんた鈍くさそうね・・わらわの迷惑にならないと約束するなら、ちょっと手くまない?そろそろ新しい血筋を作ろうかと思ってたとこなの」

 

 ぶひーーーー

 

 「アッ、いたぞ!!やっつけろ!!」

 突然どこからか、豚声とともに鳴り響いたその大声に、飛び跳ねたのは鳥インフルだった。

 

 「あやつらはっ、豚の免疫兵士ども・・!まだ、わらわの偉大なる力が活性化する前に見つかってしまうとは不覚!!」

 言うなり、ぽーんとピンクの地面を蹴って浮かび上がった鳥インフルを、冬乃はぽかんと見上げる。

 

 「あんたも逃げなさい!殺られるわよ!!」

 

 (逃げろったって・・)

 冬乃が尚も呆然と見つめる先で、鳥インフルはものすごい勢いで飛んでいってしまった。

 

 

 ふと視界の端に映った、ピンク色の物体に。冬乃ははっと振り返る。

 

 「この豚の体にインフルはおいらだけでじゅうぶん」

 むふむふと笑っているやはりツノだらけの生き物に、冬乃は目をみはる。

 

 「おいらこそ正統な豚インフル。おまえら異端は消えろ。・・おっとおいらも殺られる前に逃げなきゃ」

 

 「ま、ちょっと待って」

 背を向けて転がるように駆け出した豚インフルを、冬乃、いや人インフル冬乃は、あわてて追いかける。逃げこむ場所もこのままでは分からない。

 豚インフルについてゆくしかないだろう。

 

 「なんだよう、ついてくんな」

 

 ぎええええええ

 

 突如どっかで鳥インフルのものとおぼしき断末魔のさけび声。冬乃も豚インフルも、ぎょっとして振り返った。

 

 「くそう、ここは居心地悪くていやだっ。おいらの仲間もだいぶ殺られちまったし」

 豚インフルが忌々しげに言う。

 

 「ここらで他の豚へうつるかな、えいっ」

 

 (え)

 またも、ぽーんとピンクの地面から飛び上がった豚インフルに、

 冬乃はもしかしたら自分もいまインフルなら、似たことができないかと次には思い立って、足に力を籠めた。

 

 「えいっ」

 

 見事に冬乃はぽーんと飛び上がることに成功した。

 

 (やったー)

 

 と思ったのもつかぬま。

 下を見れば、一見してそれとわかる免疫兵士たちが、まがまがしい殺気を放ちながら、宙にいる冬乃たちに一直線に向かってくるではないか。

 

 (きゃ・きゃあああ・・!)

 

 前を飛ぶ豚インフルのさらに向こうには、なにやら出口らしき光が射していて。


 冬乃も大慌てでその出口へ着こうと手脚をばたつかせる。尤も見てみれば冬乃の手脚もまたツノである。

 

 ぶひーーーーーっくしょん!!

 

 (ひゃあああぁぁぁ)

 ここらは鼻の粘膜だったのか、いまの轟音と同時に次の瞬間には、突風の嵐に巻き込まれて、冬乃は豚インフルとともに光の中へ飛び出していた。

 

 (・・・あ)

 飛び出した先には、たくさんの豚たちがいた。

 

 「あの豚にしよう。えいえい」

 豚インフルがさっそく、とある豚の鼻の上めがけて落ちてゆく。

 

 (ん?)

 あの豚、どこかで見覚えが・・

 

 (あ・・っ、いつかのお母さん豚!!)

 「だめえ!」

 

 慌てて叫んだ冬乃の声もむなしく。

 

 (ああ・・)

 お母さん豚へと侵入してゆく豚インフルを見ながら、

 

 冬乃のほうは、身にまとうあたりの湿気の重さに耐えきれず、草の地面へとやがて着地した。

 

 (ぎゃ)

 次には通りすがりの豚に踏まれたものの。自分の体があまりに小さかったのか、潰れはせずに、むしろ豚の足の裏にどうやらくっついたようで。

 

 (目がまわる)

 

 そのまま豚の足裏にくっついたまま、冬乃が運ばれた先は餌場のようだった。

 

 「んで、どの豚を新選組に送ることにするか決めたのかい?」

 

 (え!)

 

 突然聞こえてきた人間の声に、冬乃はどきりと耳をそばたてる。といっても冬乃は未だに豚の足裏にいるのだが。

 

 「あの母豚とその子達にするさ。他の母豚は皆いま体調が悪くてよう」

 「ああ、おらのところも今そうさね。豚の間で風邪が流行ってていかん」

 「まいるねえ。ま、豚の風邪なんざ死ぬこたあ滅多にないから心配いらんよ」

 

 (そっか・・)

 ブタインフルエンザは、豚にとって予後は悪くない事が多いと、読んだおぼえがある。

 

 あの豚インフルが侵入した母豚も、きっとそれをうつされることになる子豚たちも、その子豚からさらにうつされることになるだろう、冬乃と接触したあの子豚も。大丈夫なはずだ。

 

 

 (だいぶ大丈夫じゃないのは・・・・私だけか)

 

 

 

 妙に納得したところで。

 

 冬乃は目が覚めた。

 

 

 

 

 

 

 「冬乃」

 

 優しい温かい声。

 冬乃は、安堵とともにそっと声の主を見上げる。

 

 つい直前までなんだか変な夢をみていた気がする。

 一体どれくらい経ったのだろう。ふと見やれば、藤堂は昼の巡察に行ったのか居なくなっていた。

 

 「腹減ってない」

 沖田の気遣うような眼が、冬乃を覗きこんだ。

 

 冬乃は頷いて、重たい瞼を抑えて見つめ返す。

 

 「食欲はどう」

 

 まだ熱っぽさで頭痛までしているものの、それでも先程よりは少しだけラクになったような感覚がある。

 冬乃は「少しだけどあります」と声を押し出した。

 

 きっといま、冬乃のなかの免疫が一生懸命働いているのだろう。

 

 事実、こみあげる咳に、冬乃は次には沖田から顔を背けて。

 「っ・・」

 

 コンコンと咳き込みだす冬乃の体を、沖田がやや横にして背を撫でてくれる。冬乃はなんとか頭を下げてみせながら、

 無理に咳を我慢しないほうがいいという事も、以前に読み漁った本に書いてあったと思い出す。

 

 咳も、鼻も、熱も。すべて、体が侵入者を退治する過程で起こしている症状だからだ。だからそれらの症状を無理に止めたりはせずに、

 

 冬乃がするべきことは可能なかぎり栄養を摂って、そうして体が闘う力を保つ事。

 

 

 「何か食べたいものはある?」

 

 咳が収まって暫く、つと聞いてくれた沖田に、冬乃は素直にこくんと頷いた。

 

 「・・おでんが食べたい・・です」

 

 真っ先に浮かんだものを答えてしまってから、時期外れだったかと思い直すも、

 「具は?」

 とまるで問題なさそうに聞き返されて、冬乃はちょっと考えた。

 今の時期でも厨房にありそうな食材はきっと・・・

 

 「・・こんにゃくと、」

 挙げてみる。

 

 「だいこん、卵、ちくわ・・・」

 

 ふと沖田を見ると、だが、こころなしか驚いたような顔をしている。

 (?)

 

 「わかった。少し待てる?」

 

 一寸間を置いてかけられた言葉に、冬乃はもちろん「はい」と頷いて。

 

 「ありがとうございます」

 

 

 沖田は、微笑んでそして立ち上がった。

 

 厨房へ伝えにいってくれるのだろう。冬乃は、面倒をかけることになる茂吉たちにも心内で詫びと礼をしつつ、

 出てゆく沖田の背を目で見送り、再び瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

   


  

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