一五. 恋華繚乱④
あれから当たり前だが予定時間までに各所の掃除が終わらず、外庭の箒がけはいったん中断し、
夕餉の後片付けが終わってから、残りの掃除をなんとか終わらせた頃には、すっかり夜も更けていた。
お孝から、もっと手を抜いてええんよ、と再三に耳打ちされているが、
冬乃は自分でも馬鹿らしくなるくらい、やり始めるとしっかり終わらせるまで頑張ってしまう。
因果な性分なのかと溜息をつき、冬乃は箒を引きずりながら部屋へとやっと戻ってきた。
(どうしよう、間に合うかな)
風呂である。
普段なら、夕番の巡察から戻った幹部が、夕餉も済ませて風呂を使い終わった後で、かつ、夜番の幹部が帰ってくる迄の、
その間の比較的長い空き時間に、使わせてもらっている。
男達も、その時間は冬乃が使っていることを了承していて、決して入ってはこない。
どうしてもその時間帯に風呂に入りたいときは、平隊士棟の風呂場へ行ってくれるほどだ。
だが、今日はこうして遅くなってしまったために、その冬乃に与えられている空き時間は、かなり短くなっており。冬乃は躊躇していた。
それでも、夜番の幹部が帰ってくる時間は、通常この時間からでも、まだあと一時間くらい、つまり半刻は先であるはずだが、
半刻くらいなら前後することは大いにあり、もし今夜は早く帰ってきてしまえば、冬乃が使っていたら鉢合わせてしまう事態になるのだ。
いっそ、夜番の幹部が戻って使い終わるまでを待っている手もあるものの。
(でも・・)
もし逆に、通常より遅く帰ってきた場合、
彼らが風呂も終えるのを待っていたら、相当に深夜になってしまう。
連日の仕事尽くめで疲れている冬乃は、もはや起きていられるかどうか自信がない。
やはり、今から急いで入るより他ないだろうと。
まもなく冬乃は意を決して、着替えを用意すると部屋を出た。
心臓に悪い。
冬乃は決意して来たものの。脱衣所で脱いでいる時から、内心はらはらしていた。
江戸時代の風呂場の造りでは当たりまえなのか冬乃には謎だが、脱衣所と洗い場の仕切り戸がないのである。扉を開けられてしまえば、その時点で、奥まで見通せてしまうのだ。
物音を聞いて洗い場から「入ってます」の声をかける時間すら持てないということ。
部屋に筆記用の墨壺を用意していない冬乃は、いちいち墨をすって書いている時間など無いから、もちろん戸に張り紙すらできてなく。
かといって、扉に内側から箒か何かの棒を立てかけて開かないようにする、というのも、なんだか感じが悪い気がしてしまう。与えられた時間の、もっと早いうちに入っておかなかった冬乃がいけないのに。・・気遣い過ぎかもしれないものの。
もっとも、彼らにとっては普通の力で勢いよく開けられれば、そんな棒も折れるだけだが。
(どうか、早く帰ってきてしまいませんように・・)
持ち込んだ手燭を脱衣所に置いたままに冬乃は、木の板が敷き詰められた、水はけのために傾斜のある洗い場を踏みしめる。
淡い光のなか、風呂桶とは別にある掛湯用の桶から、湯を汲んで体にかけて。心を鎮めようにも無理な話なので、冬乃はひたすら急いだ。
今日は体を洗うだけで済ませるしかない。湯に浸かっている時間は無く。
もっとも沸かし直してすらないから、この掛湯同様、だいぶ冷めているかもしれないと。
思いながら、あと少しで終えられる、という時。
「原田さん、待った・・!」
よりによって沖田の声が、不意に外で聞こえて。
(え)
刹那に。
スパーンと。戸が開いた。
(きゃああぁぁぁ)
「あ?・・嬢ちゃんか?」
叫ぶ間もなく、咄嗟に両腕で前を覆ったものの。
戸に対して、斜めに背を向けたような状態だった冬乃の脳裏には、
(頭隠して尻隠さず)
混乱しすぎて、ことわざが浮かぶ。
いや、たしかこういう意味では無いのだが。
「こんな時間までごめんなさ・・っ」
戸に対してどういう向きになればいいのか今更わからず、冬乃は凍りついたままとにかく謝りながら。首だけ怖々と戸を向いた。
(あれ)
何故か戸口には原田だけで。沖田の姿が見えず、幾分ほっとしてしまったものの。
(声がしたのに)
「原田さん、」
そこに、戸の向こうに居たらしく彼の声がした。
「いつまでそっち向いてんです」
続いた呆れ声に。
原田が、はっとした様子で「お、悪い!」と回れ右をした。
(いえ、悪いのは遅くに使ってる私ですし・・!)
冬乃の視線の先で戸が閉められると同時に、
「冬乃さん、慌てなくていいからね」
戸越しに沖田の声が響いてきた。
(そんなわけにいきませんっ)
冬乃は早々に立ち上がって、脱衣所へ急ごうとして。
滑った。
だあああん
かぽーーーん
自分の受け身の音とともに何故か、高音域の音が冬乃の耳を過ぎり、
「・・いったぁ・・」
自分でも訳が分からぬままに、なんとか受け身がとれた姿勢で目をまわしていると、
「冬乃さん?大丈夫?」
「おうい生きてるかー?」
外から、心配する沖田たちの声が連なって届き。
「だいじょうぶです生きてます・・!すみません!」
外に届くように冬乃は叫んでから、
よくよく見渡せば、どうも向こうに転がっている桶が、先程の音の正体だったようで。
転んだ拍子に、手から飛んでった石鹸用のヌカ袋が、その辺に積んであった桶のひとつを直撃して落としたらしい。
傍まで戻ってきていたヌカ袋を拾い上げて、よろよろと立ち上がる冬乃に、
「嬢ちゃん、ほんとに無事なのかー!」
原田が再度確認する声が響き渡り。
「はいっ、無事です!」
(あ、でもちょっとおしりイタ・・)
立ち上がってみると、痛みがはしり。
「慌てなくていいと言った矢先に」
急いで滑ったと軽くバレているらしく、沖田の呆れたような声が聞こえてきた。
(うう)
冬乃は尻をさすりつつ脱衣所へ向かいながら項垂れる。
「しかし沖田おまえ、嬢ちゃんが居るってわかったの?」
戸の向こうで原田の声が続いた。
「誰か居るのは俺も分かってたけどよ、フツーこの時間に嬢ちゃんだと思わねえだろ」
(そういえばそうかも・・)
冬乃はこれまで一度も、こんなに遅くに使ったことは無いのだ。
近藤や、今は東下中だが土方なら時々、夜番の幹部に交じって風呂を使っていたようだから、
原田はきっと、漏れる光を見た時てっきり近藤あたりだと思ったのだろう。
体を拭いて服を着ながら、冬乃は会話に耳を澄ます。
「冬乃さんの気配がしてたでしょうに」
沖田の返事が聞こえた。
「嬢ちゃんの気配ってどんなだよ」
「んなもん、言葉で説明できるわけないでしょ」
冬乃の気配とは何なのだろう。
当の冬乃もおもわず首を傾げた。
「とにかく人それぞれ違うやつですよ」
「わかんねえって。おまえが異常なの!」
(やっぱ・・)
超一流剣客は、超能力者なのではなかろうか
(そういえば、じゃあ)
あの新見達の部屋での時も、やはり沖田は冬乃だと初めから判ってて襖を開けてきたのだろう。
「つうか、なに沖田、だったら俺の気配もよめるの」
「わかりやすいですよ、原田さんのは特に」
(ぷ)
「どういう意味だよ、ソレ?!」
もはや笑い出した原田の抗議を聞きつつ、
冬乃は戸を開けた。
「お待たせしてしまって申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げて。
「いや、その、・・開けちゃってごめんな」
「そんな」
原田の気まずそうな声に、
冬乃は頭を上げるなり慌てて首を振った。
「私のせいです。今日は仕事が長引いて遅くなってしまって、それなのに使わせていただいたばかりに」
「あ、あと、急いでいてお風呂は沸かしてないんです、お入りになるのでしたら沸かされたほうが・・」
そうだ私が沸かしてきます
とそのまま風呂場の裏へ回ろうとしたが、「俺らでやるから」とあっさり沖田に引き止められ。
「それより、さっきどこか打ったよね。痛くないの」
心配そうに覗きこまれた。
おもわず冬乃は尻へ手が行く。
ああ尻なんだ
というふうに冬乃のしぐさに二人が見やって。冬乃は赤面した。
「ちょっと痛いですが、受け身は取れたので・・大丈夫だとおもいます・・」
「よく冷やして痛みが続くようだったら我慢せず、仕事は休んでいいから安静にすること」
「はい・・」
「人手のことは心配しなくていい。今日、井上さんが茂吉さんから要請を受けていた件で、数人採用したようだから明日明後日からはラクになるはず」
「お、使用人増えるのか!女?」
「全員、男です」
沖田の即答に、原田が「ちえっ」と肩を落とした。
「それから・・」
(?)
つと傾けられた沖田の台詞に、冬乃は続きを待ったが。
「・・まあ、これはまた今度」
体を冷やすといけないと気遣われ、冬乃はそのまま帰された。
(何だったんだろ)
気になりつつ、部屋に戻った冬乃はほっと一息ついた。強く打っていないほうの尻を下に、そっと畳に座る。
それにしても、明日から新しく人が入ってくるのが嬉しい。これで皆の負担が解消するに違いない。
(良かった・・・)
布団を敷かねばと。やがて冬乃は押し入れに向かうべく、ゆっくり立ち上がった。
「嬢ちゃん、綺麗な体してんだなあ・・」
沸かした風呂の湯気が充満する洗い場で、原田が先ほど目撃してしまった冬乃を想い出した様子で、感嘆した声を漏らし。
「沖田はもう何度もあの体、見たり触ったりしてんだろ?ずりいぞ、次は替われ」
「次は無いですよ。彼女の密偵の疑いは失せてんだから」
沖田は、真面に答えてやりながら、ふと、
冬乃がまた未来で薄着やら裸でいる時に此処へ来れば、その限りでもないのかと思い出すが、勿論、口にはしない。
「てえと今となっては、嬢ちゃんと恋仲になった奴だけが、いくらでも見放題の触り放題のヤリ放題なのか」
いや、べつに沖田もこれまで見放題の触り放題のヤリ放題だったわけでは決して無いのだが。どうにせよ一聴すると下品な台詞も、原田が口にすると何故か只のふざけた世間話になる。
原田のもつ明朗な性格の賜物なのか。
沖田は笑ってしまいながら、返事はせずに聞き流した。
しかし原田なぞ、恋仲のマサとの婚姻が目前だというに口を開けば猥談なその調子は、この先も当然の如く変わらないのだろう。
「だってよ、沖田も知ってるだろ、」
原田はまだ話を続けたいようで。
「いま組じゅうの若い隊士達が、嬢ちゃん狙ってるぜ?」
「そのようですね」
「な、おまえ嬢ちゃんのこと実際のところどう想ってんの」
「・・よく気の利く良い子だと思ってますよ」
「おい、ごまかすなよ」
原田の追求に。
「原田さんは、彼女が未来から来ていることは信じているんでしたね」
沖田は顔を向かせ。
「あ?ああ、信じてるぜ」
「ならば、分かるでしょう。互いの生きてゆく時代が違う以上、恋情の類いの対象には為りえない」
「んあ・・?」
原田が首をひねったまま止まっている。
「・・・」
良くも悪くも原田があまり深く考えないことを忘れてた。
噛み砕いて伝えてもいいのだが、そこまで原田も解を求めてはいまい。
「いや、今のは気にしなくていいです」
沖田は、掛湯の桶へ向き直り。原田の停止した時間を再開してやった。
「あ?ああ・・」
呑まれた様子で原田が、同じく掛湯へ向いて湯を汲みだし。
「よく分かんねえが、対象じゃねえなら、嬢ちゃんは好みの女じゃないってえことなんだな?」
「いや、好みですよ」
「へ?」
好みかどうかの二者選択で聞かれてしまえば、好みなので、嘘を言っても仕方がなく。
「好みだが恋情の対象じゃねえの?」
「そう」
そろそろ面倒くさくなった沖田が一言で済ますと、原田がまた暫く黙り込んだのち、
「ああ、とりあえず後腐れなきゃヤリてえってとこか」と勝手に納得した様子で湯を被った。
「嬢ちゃんは誰か好きな奴いないのかな」
原田がまだ呟いている。
「マサさんとはどうなんです。いつ祝言になりそうですか」
「ああ、来月中を狙ってんぜ!」
仕方がないので別の話題をふると、原田が食いついてきたので、そのまま続けることにし。
原田の熱い語りを耳に、沖田は、先ほど冬乃に言いかけた事を彼女にいつ切り出そうかと頭の隅で考えた。
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