伝えたいこと


『いやよ、いや……信じないっ! 理人ぉ……』

『俺は、最後に理人になんて言った? なんて声をかけた? あれが最後だなんて……信じたくない……!』


 リヒトのお母さんの泣き声は、もはや悲鳴ともいえるようなものだった。胸が締め付けられるその光景を、唇を噛みしめながら見つめる。

 雨と土でドロドロになったリヒトのお母さんの隣に膝をつき、肩を抱いて一緒に涙を流すのはリヒトのお父さんだ。


「母さん、父さん……」


 2人の元へと向かっていたけれど、その光景を見て私もリヒトも思わず足を止めてしまった。台風の中、掠れた声で呟かれたリヒトのその言葉は、雨風の音にかき消えていく。


 フッ、と景色が変わった。夢ではよくあることだ。気付けば私たちは和室に立っており、目の前には肩を落として項垂れる女性の姿。後ろ姿だったし、その髪には白髪が混じっていたけど、間違いなくリヒトのお母さんだとわかった。


『理人、ごめんなさいね。あれから20年以上も経つというのに、まだ貴方がもう帰ってこない、だなんて思えないの……。どこかでまだ生きているって、どうしても諦められないの』


 棚に飾られたリヒトの子どもの頃の写真を前に、リヒトのお母さんは懺悔するように語りかけている。思い出の品なのだろうか、子どもの頃のリヒトの靴や絵画、制作物や、お菓子なども並べられていて、それだけでリヒトが長年、どれほど思われ続けていたのかがよくわかった。


 襖が開き、奥から初老の男性がやってくる。リヒトのお父さんだ。ゆっくりとお母さんの隣に胡坐をかき、一緒にリヒトの写真を眺めていた。


「母さん、父さんも……すごく、年取ったなぁ……」


 そんな夫婦の後ろ姿を、目を細めて眺めながらリヒトがポツリと呟く。それ以降、ピクリとも動けなくなってしまったリヒトのために、私はこの夢の中に来たことで知り得た情報を伝えてあげることにした。


「あのね、ここはリヒトのお母さんの夢の中だけど、今見ているこの景色はお母さんたちの今の状況でもあるみたい。夢でまでずっと、リヒトのことを気にしているんだね。何年も経った今でも……どこかで生きているって、信じてくれてる」


 今、私の心に伝わってくるのは途方もない悲しみとわずかな諦め、それから温かく優しい愛情だった。


 鼻の奥がツンとする。今は魂だけの状態なのに、こういう痛みは感じるんだな。涙も溢れてしまいそうだ。

 だって、この夫婦の姿が昔の私と重なって見えてしまったから。もう生きてはいないだろうって心のどこかではわかっていて、それでもこの目で確かめたわけじゃないから信じられなくて、生きているって信じたくて。時にはそう思うのも辛くて仕方なくなったり、どうして自分だけが生きているんだろうって悩んだり……。


 だけどもしも生きていたら? 待っている人が誰もいなくなってしまう。自分だけは待っていなきゃ、ってそれだけを心の支えに生きて、生きて。

 必死にその時、その時をがむしゃらに生きて。


「……声をかけても、大丈夫か?」


 ジッと黙って昔のことを思い出していると、リヒトが静かに聞いてきたことでハッと我に返る。そうだよね、教えてあげないと。リヒトはまだ生きているんだってこと。そのために私たちはこうして夢を渡ってきたのだから。

 リヒトのお母さんが目を覚ました後もこのことを覚えていて、なおかつそれを信じてくれるかはわからないけれど。


「……うん。だけど、そんなに時間はあげられないよ」


 長時間は無理だ。魔力的には問題ないと思うけど、制御をし続けられないから。それに、ただでさえ夢への干渉は危険を伴う。それも、術者以外のリヒトが干渉するのだから余計に慎重にならないといけない。


 でもね? たぶんこの状況なら、リヒトなら大丈夫。そう信じているんだ。


 私はリヒトの手を離し、そっと背を押した。ここで待っているよ、と目だけで伝えて。リヒトも頷き返し、しっかりと二人の方に向き直る。

 一歩、一歩と進むその後ろ姿を見ただけで、とても緊張しているんだってことがわかった。頑張れ、頑張れ……!


「っ、父さん、母さん……!」


 リヒトが少し大きめの声で母親を呼んだ。たぶん、ご両親が知る声とは違うだろう。リヒトは大人になっているのだから。でもきっと、気付いてもらえる。リヒトが、理人だってことに。


 その声はしっかりと二人の耳に届いたようだった。ビクッと一度肩を揺らし、2人は恐る恐ると言った様子で振り返る。それから背後に佇むリヒトを見て、不安そうな顔でリヒトを見上げていた。

 

「あ、の。俺、だよ。わかるかな……? 俺も30過ぎだし、わかんないかもしれないけど……」


 そんな2人の様子を見て、リヒトも少し戸惑ったように言葉を紡いでいく。でも、少し自信がなくなっていったのか、尻すぼみになってしまっていた。

 リヒトの姿をまじまじと見つめる夫婦。その目は次第に驚きで見開かれていき、ついには震える手を伸ばしてリヒトの服の裾を掴んだ。


『りひ、と……? まさか!』


 声も震えている。信じられないものを見るような目で、リヒトの顔を凝視して。リヒトはその場に膝をつき、服の裾を握る母親の手を両手でとった。それから優しく握りしめる。


「うん、俺。理人だよ。信じてくれる? 母さん」


 今にも、泣き出しそうな笑顔で。


 でも、絶対に涙を流すものかという決意のようなものを感じた。その気持ちはとてもよくわかるよ。だって、泣いてしまったら今が辛いみたいだもんね。


「俺さ、ガキの時、全然言うことを聞かなかったよな。母さんがいつも許してくれるから、甘え切っていたんだ。父さんの言うことも、うるさいな、としか思ってなくて……。今なら2人の気持ちがわかるのに。ほんと、ごめんな! えっと、あとは……そうだ! 母さんの料理は世界一だったよ。今でもカレーの味はハッキリと思い出せるんだぜ?」


 泣いてしまわないように、だろうか。リヒトは早口で言葉を紡いでいく。必死で何かを話そうとしているんだ。涙が溢れる隙を作らないように。

 だけど一瞬、言葉が途切れた。


「……っ。何年も、ずっと思い悩ませて、ごめん。でも、頼むよ。もうあの時のことで苦しむのはやめてくれ。もう、母さんたちの元には帰れないけど……でもこの通り、俺は別の世界で元気にやっているからさ!」


 じわじわと、リヒトのお母さんの目に涙が溜まっていくのが見て取れた。ただ黙ってリヒトを見つめ、一言も聞き漏らすまいとその言葉を聞いているみたいだ。次第にその涙は溢れ、ポロポロと頬を伝って落ちていく。


「俺は、俺は、父さんと母さんの子で良かった。生まれてきて幸せだった。今も幸せだ! だから……長生き、してくれよ? 父さん、母さん……」


 だんだんと景色が薄くなっていく。ここまでが限界だ。これ以上は制御が出来ない。汗が噴き出て、呼吸も苦しくなってきた。

 くぅ、魂だけなのにここまでリアルに苦しいなんて反則だよぉ! ごめんね、リヒト。こうなるってわかっていたら、もっと夢渡りの練習しておけばよかったよ。


 というか、あんなに有り余っていたのに魔力も枯渇寸前になっている気がする。たとえ夢の中だとしても、人の力で世界を渡るのは難しいってことなのかな。そう考えると、結果として私の魂をこの世界に呼ぶことになったマーラさんの特殊体質はすごいな……。


『理人、理人! 待って!』


 薄れていくリヒトのお母さんが手を伸ばして叫んでる。それを受けてリヒトがチラッと私の方を見た。すでに立っていられなくなった私はその場にぺたりと座り込んでいて、リヒトが焦ったように顔色を変えたのがわかった。


「っ、母さん! 父さん! 俺は、いつも2人のことを思ってるから! 絶対に、絶対に忘れないからな!!」


 両親に向かってそう叫んだリヒトは、すぐに私の元へと駆け付けてくれた。それから私の身体を支え、大丈夫かと声をかけてくれる。

 正直、辛くて苦しかった私は黙ってリヒトに寄りかかり、息を整えていく。そうしている間に夢の景色が消えていき、気付けば元の真っ白なだけの空間になっていた。


「ご、ごめんね、リヒト。もう少し、時間をあげたかったんだけど……」


 どうにか落ち着いたところで、なんとかそれだけを伝えると、リヒトがギュッと抱き締める力を強めてくれた。


「馬鹿、ごめんは俺の方だ。無理させたんだよな、本当にごめん。でも、ありがとうな」


 リヒトの言葉にゆるゆると首を振る。でも疲れたのは事実なのでそれで精一杯なのは許してね。

 しばらくリヒトに抱えられながら座り込んでいると、小さな声でリヒトが話し始めた。


「馬鹿だよな、俺。もっと言いたいことなんていっぱいあるのに、料理が世界一とか、どうでもいいこと言ってさ」


 自嘲したように笑っているけど、どことなく纏う雰囲気が変わった気がする。きっとそんなものなのだ。ずっと会っていなかった友人と久しぶりに会った時、当たり前のように会話を始めてしまうような、そんな感覚に近いのかもしれない。


「でも、伝えたいことは伝えられた。でしょ?」

「ああ、そうだな。くそ、ここにいると俺の気持ちは全部メグに筒抜けじゃん」


 そうなのだ。ここはリヒトの精神世界。リヒトの感情はダイレクトに伝わってくるのだ。だから、リヒトがもう後悔していないことも、この世界の住人になる覚悟を決めたことも手に取るようにわかった。


「お母さんには、伝わったかな? 出来ればお母さんを通じてお父さんにも伝わればいいんだけど」


 今頃、リヒトのお母さんは目を覚ましていると思う。私が限界になったのと同じころに、目覚める予兆のようなものも感じたから。

 覚えていてくれたらいいなぁ。夢は儚いものだから、覚えていたとしてもすぐに忘れちゃうかもしれない。その前に、なんとかお父さんにも夢の内容を教えてあげてほしいなぁ。……そもそも、信じてくれるかもわからないけど。


「それは大丈夫だ」


 私がそんな不安や願望を漏らすと、リヒトは確信を持ったようにそう断言した。妙に自信満々じゃないか。首を傾げていると、リヒトは自分の胸に手を当てて目を伏せた。


「夢が途切れる時にさ、声が届いたんだ。『愛している』ってさ。声かどうかはわからない。でも、母さんの想いが伝わったんだ」


 だから、きっともう大丈夫だって。たとえ夢の内容を覚えていなくても、これまで抱えていた痛みや辛さは、もう消えてくれているだろうって、リヒトはそう言って笑った。


「それは、自分がそんな気持ちだから?」

「そう、だな。本当のことなんてわかんねーけどさ、でもそんな気がするんだ」

「そっか。それなら、きっとそうなんだよね」


 たぶん、世界を超えてまでの夢渡りは、今のが最初で最後だと思う。そう思う理由は2つ。


 1つは、想像以上に魔力を消費することだ。今はリヒトの精神世界にいるからこそ、どうにかなったってだけなんだよね。

 そしてもう1つは、人の精神世界にはそう簡単に入り込めないということ。それこそ、今回のように私が魂を身体から引き離さない限り無理なことなのだ。


 夢渡りは本来、魂ではなく意識が渡るものだからね。何が違うんだって思うし、似たようなものではあるんだけど、そこには大きな違いがある。命の危険があるかどうかの大きな違いがね!


 さすがによほどの理由がない限り、もう夢渡りで命を張ることは出来ない。私を心配してくれる人たちを裏切る行為にもなるからね。そもそも、意図的に魂を身体から離す方法がわかんないし。あと普通に怖いよ、魂を離すなんて。


「というわけだから、ごめんね? 後は、信じることしか出来なくて」


 そんな自分の考えを、嘘偽りなくリヒトに伝える。だって、私だけリヒトの気持ちがわかるなんてなんとなく不公平な気がしたんだもん。それに、中途半端に期待はさせちゃダメだと思ったのだ。

 それを受けて、リヒトはそっかと少しだけ残念そうにしたけれど、すぐに私の頭にポンと手を乗せた。それからそのままグシャグシャと髪をかき乱す。ちょっと!?


「謝るなっての! そもそも、こんな機会がもらえるなんて思ってもみなかったんだから。俺は感謝してるんだぞ? もう、十分だから」


 グッと、泣きたくなるような感情が流れてきた。悲しいような、嬉しいような、複雑な気持ち。でもそこに後悔なんてないっていう気持ち。


 それを感じた瞬間、「あ、今なら出来る」と思えた。ハッとなっているから、リヒトも同じタイミングでそう思ったのだろう。


「さて、と。やるか!」

「いいの?」

「いいも何も……。そうしないと俺ら、ここからどこにも行けないぜ? 俺は嫌だぞ? メグのことは好きだけど、クロンに会えなくなるなんて耐えられない」


 それもそうか。私もギルさんに会えなくなるのは絶対に嫌だ。耐えられない。……もちろん、ギルさんだけじゃないよ? お父さんにも父様にも、他のみんなにも会えないのは嫌だ。


 だけど、一番最初に思い浮かんだのはギルさんだった。不思議だなぁ。やっぱり私、ギルさんに頼りきりなんだな。そう思ったらなんだか無性におかしくなってついクスッと笑ってしまった。

 それに、すごーく会いたくなってきた。


「これから、長い人生になるよ?」

「そうだな。想像もつかねーけど、その分クロンといる時間が増えるなら大歓迎だ!」

「それに、一蓮托生だね?」

「おー。お互い身体には気をつけような」


 ────魂を、分け合って。


 そこから何がどうなったのかはわからない。私たちは真っ白な空間に飲み込まれていくのを穏やかな気持ちで感じていた。

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