私
突然の出来事に立ち尽くす。
残業を終え、帰宅の途中コンビニで夕食を買い、自宅の玄関の鍵を開け、短い廊下を歩き、リビングの扉を開ける。いつもと変わらない、半ば無意識のうちに済まされた行動はリビングの照明を点けることを最後に、私をいつもと違う現実に導いた。
私が、倒れている。
リビングの入り口からソファに向かう途中、うつ伏せになって倒れている男を見、しかし、私は直感的にその男を「私」だと悟った。
硬直していた意識が少しずつ落ち着きを取り戻す。何かをしなければいけないと思いコンビニで買ってきたペットボトルのお茶を一口飲み込んだ。ゴクリという音が大袈裟なほど部屋に響き渡る。
その男は見れば見るほど「私」だった。三着しかないスーツの柄は今朝私が選んで着たものと同じだったし、少し天然パーマがかかったくせのある髪質は私の髪質そのものだった。私と同じ中肉中背の身体は呼吸に合わせてゆっくりと動いている。生きている、そう思った。
それならばこの私は一体誰なんだろう、という当たり前の疑問に帰結するまでかなりの時間を要した。意識が魂のように抜け出して、自身を眺めているのか。ベランダの窓ガラスを向いて確かめてみる。確かに私と男の姿は窓ガラスに映り込んでいた。
すると、誰かの悪戯なのだろうか、とも考えたがその考えをすぐに打ち消した。私には私に悪戯をするような親しい間柄の人間などいないではないか。第一に私は鍵を開けて入ってきた。開けたということはつまり閉まっていたということだろう。
「人間は……」
不意に声が聞こえた。倒れている男の方から聞こえてくる。
「人間は、思いもよらない出来事に相対した時、二種類に分かれるんだってな」
「しゃ、喋れるのか?!」
突然の事に驚き動悸が激しくなった。そしてこいつは私の声をしている。やはり、この男は「私」なのだろうか。
「ひとつは、状況を整理して、とりあえずでもいいからと行動を起こすタイプ」
男は構わず続ける。
「もうひとつはいつまで経っても結論を先延ばしし、ただただ無意味に立ち止るタイプだ。馬鹿みたいにな。どうだい? おまえが家に帰って来てから随分と時間が経つじゃないか」
「おまえは俺なのか? それともこれは幻覚というやつなのか?」
「さあね。幻覚かも知れない、幻覚じゃないかも知れない。どっちだっていいじゃないか。現に俺はここにいて倒れているんだから。ずっと何の介抱も受けずにな」
ククッと男の笑う声がする。まったく嫌な奴だ。
「そうだな。俺は『嫌な奴』だな。だから、妻子にも逃られ親しい友人もいない。そうだな。俺は嫌な奴だ。まったくその通りじゃないか」
「こ、心が読めるのか?」
さあね、と男はひと言だけいった。のらりくらりとして埒があかない。
「俺はな、おまえの中の『何か』の象徴なんだよ。おまえずっと『いっそ倒れてしまいたい』って思っていたじゃないか。疲れてて、何もかも投げ出してしまいたくて、いっそ倒れてしまえば何かが変わってくれるかも知れない、あるいは——」
男は一度言葉を止めた。相変わらず突っ伏したままだ。
「あるいはそのまま死んでしまっても構わない。馬鹿みたいじゃないか。だったらさっさと仕事なんて辞めるか死ぬかすればいいのにそうしない」
「うるさい! 少し黙れよ!」
「養育費を払わないといけないからねぇ。仕事も辞められない。ろくに会いにも行かない子供の為に働かないといけない」
「黙れと言っただろ!」
私は怒りの余り男に怒鳴りつけた。
「先延ばし、先延ばしだ。嫌なことからは上手に逃げる癖に自分の『したい』には偶然を頼って動こうともしない。倒れてしまったらきっと誰かが同情して……」
「うるさい! おまえに、おまえなんかに俺の何が分かるというんだ!」
「分かるさ。分かるだろ? 俺はおまえなんだから」
堪らなくなった。こんなやり取りをいつまでも続けていたら本当に頭がおかしくなる。私はゆっくりとネクタイをほどいた。
「ああ、ようやく決心をしたみたいだな。でもいいのか? 俺を殺したらおまえの中の『何か』も死ぬぜ? それが良いものか悪いものかは知らないがね」
構うものか、私は思った。それにこいつを殺したところでそれは「私」なのだ。罪に問われることもあるまい。
「罪に問われなければ罪は存在しないとでも? 相変わらず卑屈な……」
私はもう黙れとは言わなかった。代わりに男の横腹を蹴り上げた。うっ、という声を吐いて男は仰向けになる。素早く男の上に馬乗りになり首にネクタイを巻きつけた。男の瞳に私の顔が映り込んでいるのが見える。
薄っすらと笑みを浮かべていた。
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