ひなちゃんのうた



 娘を出産して、妻は産後鬱になった。

 出産の疲労、初めての育児への不安、そして毎日のように続く夜泣き。原因は多々あるのだろうが、彼女は次第に育児を放棄するようになった。彼女が深夜、泣き続ける娘を「うるさい!」と言って殴ったとき、私たち夫婦は大喧嘩となった。

「もういい! おまえはちょっと休め! 夜は俺が面倒を見るし、仕事中は実家で預かってもらうから!」

 私がそう言うと彼女は罵倒の限りの言葉を私に浴びせベビーベッドで泣き続ける娘を置いて自分の寝室に篭って出て来なくなった。

 翌日、妻の方も流石に実家へ子供を預けるのはバツが悪かったのか、昼間は彼女が面倒を見るが、夜は完全に私が面倒を見ることにしよう、そう提案をしてきた。

 私は彼女の精神状態を不安に思いつつも、彼女から娘を奪うようなことはやはり良くないだろうと思い直し、その提案を受けることにした。

 ミルクの作り方、紙オムツの替え方と便の拭き方、お風呂の入れ方から、ミルクを飲ませたあとのゲップの出させ方など事細かにレクチャーを受ける。

「ゲップを出させないと絶対後でミルク吐くから気をつけて」

 彼女はそう言って一階の和室に布団を敷き、そこを私と娘の寝室とする旨を告げ二階にある自身の寝室に引き上げて行った。こうして私と娘の育児という格闘の日々は始まった。

 残業を早めに切り上げて、家に帰る。いつものように私が夕食を作ると妻はつまらなさそうにそれを接種する。洗い物をしている間にさっさと二階に引き上げていく妻。無言でやれるものならやって見ろと言わんばかりだ。

 湯を沸かし、殺菌槽から哺乳瓶を取り出しミルクを作り人肌に冷ます。ミルクを飲ませ担ぐよう抱き背中を叩いてゲップを吐かせる。

 浴槽にぬるめの湯を張り娘の入浴を済ます。

 和室に布団を敷き隣に娘を寝かせようやく眠りにつく。かと、思えば夜泣きに起こされ、泣き止むまでひたすらにあやさねばならない事もある。夜泣きは酷いときには四、五時間も続く。次第に疲労が溜まっていった。

 そんな日々が三か月程続くと、私の肉体と精神は睡眠不足と疲労からボロボロになっていた。子育ての睡眠不足だからといって仕事を減らしてくれるわけでもない。労働の疲労にただ普通に子育ての疲労が足されるだけだ。夜泣きによる寝不足は休みの日によって解消されるわけではない。ただ加算されるだけの疲労に私は疲れ果てていた。たった一日でいい、ぐっすり眠りたい、何もしないでいい一日が欲しい、心の底からそう思うようになった。

 いつ終わるかも分からない育児の日々に追い詰められる。辛い。孤独だ。妻とはほとんど会話もないし、娘は寝ているか泣いているかだけだ。誰かに褒められる訳でもないし、娘は世話をする私を責めるように夜泣きをする。

「もういい加減にしてくれ!」

 ある夜中、私の心は限界に達した。相変わらずなかなか泣き止まない娘に怒鳴りつけてしまったのだ。勿論、それで泣き止むはずもなく、むしろ泣き声は一段と大きくなった。

 私は考えた。何かを変えようと。

 夜泣きを辛いと思うのは何故か。それは、泣かれるという現象を拒絶と捉えているからではないか。あやしてもあやしても泣き止ます事が出来ない己の無力を何処かで責めているからではないか。

「ひーなちゃん、ひなちゃん、かーわいーひなちゃん」

 私は即興の子守り唄を歌っていた。

「ひーなちゃん、ひなちゃんはいい子だねー」

 出来るだけ陽気なメロディで、出来るだけ肯定的な声で。

「ひーなちゃんはかわいい、かわいいーひなちゃん、ひーなちゃんはかわいい、いい子だねー、ちょんちょん」

 それはあやすというより、ただ自らの孤独を癒し、鼓舞する自分の為の行為だったのかもしれない。けれども、私には他に方法をおもいつかなかった。

「ひーなちゃん、ひなちゃん、かーわいーひなちゃん」

 ひとフレーズが終わると最初に戻る、もうひとフレーズを歌うと最初に戻る。愚直に繰り返した。終わりなき夜を覚悟したその時、馬鹿みたいに陽気な私の歌と娘の泣き声を割った妻の声がした。

「ヒロくん、大丈夫?」

私の怒鳴り声を聞きつけて心配を胸に様子を見にきたのだ。

「ああ、ごめん。大丈夫だよ。そしてついでにごめん。君の孤独をやっと理解したよ。あの時、責めるようないい方をしてごめんね」

「ううん、私の方こそごめんなさい。正直、一週間で根を上げると思ってた。まさか、こんなに続けてくれるなんて……。甘えてた。ごめんね? 変わろうか?」

「大丈夫だよ。もう少し続けさせてくれ」

 ぼろぼろの笑顔を向け妻にいう。

「ひなにね、この世界は陽気で肯定的であることをもう少し教えてあげたいんだ。俺の作ったこの歌でね」

 妻は少し考えた後答えた。

「何それ、ちょっと怖いんだけど」

 久しぶりに顔を合わせて笑い合った。損なわれた、夫婦の、家族の幸福を埋め合わせるように、不器用に、大袈裟に笑いあった。


「ひなー、お服脱げたー?」

「あーい」

 あの夜から二年、嘘のように平穏な日々が続いている。

「ママー、ひなのお風呂お願いねー」

「あーい」

 少しふざけた妻の声。洗い物をしながら思い出す、あの夜のこと。終わりのない苦しみなどない、と人はいうのかもしれない。けれども、苦しみの中にいる時、それがたった数ヶ月のことであっても永遠に感じてしまうのだ。

 重い荷物なら二人で持つ。二人でも重ければもっと沢山の人が手伝う。こんな人類の太古の知恵を現代人はなぜ忘れてしまったのだろう。

 脱衣場からは二歳半になった娘の歌う声が聞こえてきた。

「いーなちゃ、いなちゃ、かーあいー、いなちゃ」

 生まれてきたこの世界を肯定するかのような陽気な声で、彼女は歌い続ける。

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