(無題。)

@leifa_sayuki

第1話


 大きな家の長い廊下からのぞく梅の花が美しい。寒に堪えて咲く凛々しい花という印象があるが、今日は気温も暖かく、穏やかな日の光を浴びて、赤い花の木と白い花の木が、そろって蕾をほころばせている。


 私はそのまま廊下に座り、梅の木を眺める。板の硬さが骨に痛いので足を崩して。


 桜よりも梅が好きだ。色と同様に香りも鮮やかで、散り際は潔くもひっそりと目立たない。


 そんな人だった。梅を眺めながらあの人を思い出す。




 結婚したばかりの頃の私は、いろいろなことを諦めていた。もともと打算的な結婚だった。夫は同性愛者であったが、代々続く旧家のため、世間体のために、最低限妻が必要であり、結婚適齢期なるものを逃した私は、実家の町工場の父の借金をどうにかするためにお金が必要だった。利害が一致した私たちは見合いという名の顔合わせで即結婚を決め、一週間後には私はこのばかでかい日本家屋に嫁いできた。仲人役のおばあさんのにんまりした顔は今でも忘れられない。


 夫は私に無関心だった。一度も心が通わなかった。仕方のないことだとわかってはいたが、寂しいには違いなかった。ある日、子供が必要なのでは、と恐る恐る尋ねた私に、夫は、まかせる、と返事をした。


 まかせる、とは。養子をもらえということなのか、子宝に恵まれないで通すつもりなのか。


 それとも。




 ある日、夫の恋人である複数の男のうちの一人が私を訪ねてきた。夫は自室で別の愛人と時間を過ごしており、私はそんな彼らが休憩のときに取る昼食を作っていた。




「あんたさ、このままでいいの?」


「え、あの、」


「あんた、俺と同じ匂いがする。」




 莫迦みたいに真剣な顔だった。握られた手が熱くて、そこから全身に熱が廻った。そのまま手を引かれ、家を飛び出した。


 生まれて初めて、女として愛された。私に対して欲望を沸かすあの人が少し不思議だったが、抱き合った瞬間痛いほど伝わった。


 同じ匂いがする人。愛されたい、愛したい、大切な誰かの片割れになりたい。


 この人のものになりたい。


 一緒に逃げたかった。実家のこともなにもかも放り投げて飛び出してしまいたかった。けれど私もあの人もそれはできなかった。その代わり何度も抱き合った。


 やがて、私は妊娠した。誰よりも先にあの人に伝えた。


 俺とあんたの子供?と尋ねたあの人に大きく頷くと、あの人は蕾がほころぶように笑った。私のぺたんこの腹に手を当て、額にキスをしてくれた。




 そしてそれきり、あの人はいなくなってしまった。




 連絡が途絶え、こちらから電話をかけても繋がらなかった。メールも宛先不明で戻ってきた。


 不思議と、捨てられたとは思わなかった。あの人の最後の笑顔には、心の底からのしあわせがあったから。


 夫に妊娠したことを伝えると、少し間をあけて、そうか、と返事された。無表情は相変わらずだった。




 少し膨らんだおなかをさすりながら、廊下の窓から見える梅を眺め続ける。日が当たってぽかぽかと気持ちがいい。座布団を持ってくればよかったと思った。せめてこの廊下にもカーペットが欲しい。


 けぶるように纏う匂いが、窓を開けなくても伝わってくる。ごつごつした木の肌の感触が手に浮かぶ。


 それを忘れないようにと、知っておいてほしいと思いながら、腹を撫でる。




 また会えるかどうかはわからない。


 ただ、あの人は、梅の木のような人だった。



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