【書籍版】太陽と月の聖女 ~乙女ゲームの真ラスボスになって全滅の危機です~

永野水貴/カドカワBOOKS公式

Prologue:聖王と聖女と昏木まりあの現実

Prologue1

(もう絶対にアウグストに会う!!)


 まりあは断固そう決意して家へ急いだ。今日の仕事中に遭遇した不快なことから癒されたかった。

 ここ数週間、アウグストには毎日のように会っているが、今日は特に彼のをリプレイしようと決めた。

 明日は休みだ。

 何ものも自分を止めることはできないのである。


 白い息を吐きながら冬の夜を突き進み、アパートの階段を駆け上る。

 二階の二番目の扉に鍵を差し込んだ。


 築三〇年の木造アパート、その二階の一室がまりあの小さな居城だった。

 最近改装されて、見た目は新しい。

 女の一人暮らしには十分な広さの1DKで、まりあはテレビも買わなかったのでベッドの他にはラグと、小さなローテーブルと細い本棚があるだけだった。


 まりあはバッグをラグに落とし、すぐにエアコンの暖房ボタンを押して洗面所に向かった。

 手を洗い、化粧を落とす。

 ふと顔を上げると、鏡に見慣れた顔が映っていた。


 高くも低くもない鼻。

 ちょっと幼く見える丸めの輪郭。

 エクステなどつけたこともない、素のすだれ睫毛。


 あまり頻繁には行かない美容院で、何度も染めることをすすめられている黒髪。

 中途半端に癖が入っているのか、肩より少し長いだけの髪は緩いウェーブになっている。

 運動らしい運動をしてこなかったから肌もさほど焼けていない。


 普通。

 昏木まりあを一言で現すとしたら、その言葉に尽きた。

 あるいは平凡。もうちょっと手厳しい言い方をすれば、《野暮ったい》《垢抜けない》――そんなところだろう。


 着替えてテーブルに戻り、バッグからスマホを取り出した。

 充電器に繋ぎ、イヤホンを差し込む。

 ロック画面を解除すると、ホーム画面の時計は二一時近くを示していた。


 アプリ一覧の画面を開く。

 四角いアイコンが並ぶ中で、四角の中を対角線上に区切り、上半分に太陽が、半分に月が描かれているアイコンをタップした。

『太陽と月の乙女』というタイトル画面が現れる。


 セーブデータ一覧の画面を呼び出す。データは画面がスクロールするほど沢山つくってあった。

 一番上は最新、二番目は少し前、そして三番目は《アウグスト専用》と決めていた。

 まりあは三番目に触れた。



        *


 

「駄目だ」


 聖女の訴えに、《聖王》アウグストは厳しい表情で端的にそう切り捨てた。

 これほど余地がない反応をされるとは思わず、聖女は驚き、そして反発した。


「どうしてですか!? みんな戦って、傷ついているんです!! だからわたしも……っ」

「そなたには戦う力がない。前線へ同行させるには危険すぎる」

「でもわたしには女神リデルから授かった癒やしの力があるんです! こんなときに使わないなんて……!!」


 聖女はかつてない、挑みかかるような態度で反論する。

 だが、碧眼の聖王は眉を険しくして言った。


「身の程を弁えよ。戦う力を持たぬそなたが前線へ出るとして誰がその身を護る? 戦場を知りもしないのに、護衛が必要ないなどとは言わせん」


 それははじめて目にする厳しい王の顔だった。


「――っではもう許可などしていただかなくていいです! 勝手についていきます!!」


 聖女は少女らしい無垢な正義感と義憤に燃えていた。

《陽光の聖女》は女神リデルの化身、王と唯一対等な立場にある。例外をのぞき、王の命に従う道理はない。

 ――結局、前線へ同行して騎士たちの治療を担っていた神官達の消耗もあり、聖女は同行することになった。

 だが王は最後まで、厳しい表情を崩さなかった。




 ……やがて、《夜魔王》レヴィアタン率いる大軍勢と、《聖王》アウグストの直率する大軍とが、二つの世界の境界付近で激突した。

 アウグストが率いるは光の女神リデルの加護を受けし《光の眷属》たちであり、レヴィアタンが率いるは闇の女神ヘルディンにかしずく《闇の眷属》たちだった。


 双方の力は完全に互角で、アウグストとレヴィアタンは互いに干戈を交えて一歩もひくことがなかった。

 だが、アウグストの軍はごくわずかにほころびを見せていた。

 決して負けぬ代わりに勝つこともできぬ戦いで、蓄積していた疲労、あるいは抗いがたく低下していた士気が一気に病となって表出したかのようだった。


 そして、その隙をつくように一本の流れ矢が飛んだ。

 矢は、聖女の胸に突き刺さった。


「――聖女!!」


 アウグストの、胸のつぶれるような叫びが耳を打った。


「え……?」


 聖女は子供のように目を見開き、自分を穿ったものを見た。

 動揺が一気に周りに広がった。


 聖女は崩れ落ちた。アウグストは即座に駆け寄ろうとした。

 だが対峙していたレヴィアタンがそれを許さない。

 不敵に笑いながら、隙を見せた《聖王》に襲いかかる。


「退け――!!」


 アウグストの、激情に乱れた怒号がこだました。

 その手に握られた宝剣《イルシオン》が閃き、その剣風は黄金の落雷となって敵に降り注ぐ。

 しかし、聖女が倒れたことが最後の引き金となって《光の眷属》の軍はほころびを更に広げ、崩れていった。




 流れ矢に倒れてから、聖女は昏々と眠り続けた。

 治療にあたったのは、天才と名高い神官ヘレミアスで、誰からの面会も断った。

 ――ただ一人、聖王以外には。


「……容態は?」

「落ち着いた。危ういところは抜けたから大丈夫だ。もうそろそろ目が覚めてもいい頃なんだが、過労のせいで……」


 眠る聖女の側でひそやかに会話が交わされる。

 才能に恵まれながら型破りなヘレミアスは、気さくな兄のようにアウグストに笑いかけた。


「あんまり心配すんな。王様がこう何度も通ってきたら余計に心配かけちまう。本当はちゃんと休めば問題ないってだけなのに」


 重臣たちが聞けば卒倒するような口調だったが、聖王は気にした様子もなく、半分ほどその言葉が聞こえていない様子で、寝台で眠る聖女を見つめていた。

 ヘレミアスが退室していったあと、部屋には聖女と王だけが残される。


 アウグストは寝台の側に行き、傍らに腰掛ける。

 昏々と眠り続ける聖女を見る。

 聖女は目を覚まさず、《聖王》が来ていることもわからない。


「聖女……」


 脆く、かすれた声がささやく。

 大きな手が寝台の上を迷い、聖女の手を見つけて捕らえた。


「すまない……」


 懺悔の響きを帯びた声。

 アウグストは、聖女の手を恭しく持ち上げる。

 そして手の甲に唇を落とした。

 王はそうして、長く聖女の寝顔を見つめていた。

 誰もその姿を見ず、声をかける者もなかった。




 数日して聖女は目を覚まし、体もだいぶ回復した。

 あれから動揺しながらも聖王軍は持ち堪え、なんとか致命的な敗北を避けたと知った。

 レヴィアタン率いる《闇の眷属》は戦いが長引くことを嫌う傾向にあり、深追いされなかったのだという。


 聖女は、アウグストに避けられた。

 一度目が覚めているときに面会にきて、回復しているとわかって以来ずっとだった。


(……わたしは、嫌われてしまった? 足手まといと思われた……?)


 運び込まれてくる負傷兵の介抱に追われながら、聖女はそんなふうに悩んでいた。

 意識のない間にアウグストが何度も来ていたことを、聖女は知らなかった。


 そしてある日唐突に、聖女は知らされた。

 聖女のみならず、他の《光の眷属》たちすべてに。

《光の眷属》の住まうイグレシアのいたる天井に白い光の魔法陣が現れ、《聖王》の声が降った。


「《光の子》らよ、聞いて欲しい。みな感じていることと思うが、戦いは激しくなり、同胞の多くが傷ついてきた。悪はおさまることを知らず、闇の者どもが発する瘴気が濃くなっている――」


 聖女は、声を降らせる魔法陣を見上げ、息を飲んだ。

 決して弱音を吐かず、士気を下げるような言葉は一切口にしなかったアウグストの発言とは思えない。


「だが、諸君らはよく戦い抜いてくれた。その勇猛、献身には言葉もない。これ以上、諸君らを、女神より賜りし《光の子》を、予の不徳のために失うわけにはいかない」


 聖女は言いしれぬ不安を覚えた。


「敵を旺盛にしているのは、ひとえに《夜魔王》の存在によるものである。ゆえに、予は《夜魔王》を討つことを最優先とする」


 聖女の周りで、同じく負傷兵の介抱にあたっていた女官たちが不安げに目を交わし合った。

 王は最後の決戦を挑もうとしているのではないか――。

 だが続いた言葉が、その予想を裏切った。


「狙いは《夜魔王》ただ一人のみ。予は女神に誓ってこれを討つ。《光の子》らよ、傷ついた同胞を護り、イグレシアを護れ」


 とたん、動揺の声があがった。


「いかなる者も、《イルシオン》の他に予の伴をすることは禁ずる。後を追うこともならぬ。同胞を……そして聖女を護れ。未来へ繋げよ。これは、王命である」


 それは聖女の知るアウグストとは思えぬ、冷厳で絶対的な王命だった。

 聞く者すべてに抗えぬ重みとなってのしかかり、いかなる反論も抵抗も圧殺した。

 動揺の声をあげていた者たちが悲痛な表情を見せ、うちひしがれて顔を伏せた。


 聖女はアウグストを探して走った。

 その途中、寡黙だが忠実で無二の騎士とされる近衛隊長のエルネスト、型破りだが慈悲深く親愛に満ちた神官ヘレミアスとすれ違い、アウグストを止めてくれと懇願した。

 だが二人は既に覚悟を決めた者の顔をしていた。


 王のご意志を無駄にしてはいけない――。


 望む望まざるとにかかわらず、アウグストは強大な力を持つ王だった。

 唯一、一人でレヴィアタンと互角に戦いうる騎士だった。


 聖女はイグレシアを駆け回り、ようやく《聖王》の姿を見つけた。

 イグレシア最上階の、《祈りの間》。巨大なアーチ状のステンドグラスから光が差し込み、豊かな色彩で中を照らす。

 その光を浴び、最奥に女神《リデル》の似姿が立っている。

 伏せがちな目、まどろむ微笑は、祈りを捧げる者すべてを優しく見守っている。


 その母なる女神の足元に、跪く一人の騎士の姿があった。

 背を覆う純白のマントが長い裾のように垂れ、七色の光が絵画のように映りこんでいる。

 長い、純金の髪。

 そして女神の加護を祈るように前に立てているのは、宝剣《イルシオン》だった。


 衣擦れの音をたて、聖王はゆっくりと立ち上がった。


「――陛下!」


 聖女は叫んだ。王は振り向き、蒼い目をほんの一瞬だけ見開いた。

 だがすぐに強い自制と穏やかで平板な表情に覆い隠された。

 その均整のとれた体は、純白の鎧に覆われていた。


「予は、別れの言葉は苦手でな」


 ――だから、別れさえ告げずに行こうとしていたのだと弁明するようだった。

 聖女は即座に反発した。


「一人で行くなどやめてください! どうして……」

「予が敗北すると思っているのか?」


 からかうように、アウグストは言った。

 聖女は笑わず、強く頭を振った。


「レヴィアタンさえ倒せば、この戦いを終わらせることができる。《光の子》らをこれ以上傷つけるわけにはいかぬ。これは王の責務だ。必ず、《夜魔王》を討つ」


 その言葉には、たとえ刺し違えてでも、という強い決意が滲んでいた。

 ――アウグストはもう決めてしまったのだと思った。

 強く気高い王の姿だった。

 だが、聖女はその下にある青年の姿を知っていた。


『私は王として力不足だ。目立った武勇もないし、姿勢だけでも強い王のようにふるまわなければ、周りを不安にさせてしまう。みなを護るためにも、強くあらねばならないのだ』


 本当は色んなことに興味があって快活で優しくて、時々王宮を抜け出しては重臣に怒られたりもする人だった。

 ――その人が、別人のような顔をして一人で行ってしまおうとしている。


「どうして……? どうして、いつも一人で抱え込んでしまうのですか?」


 聖女は一歩踏み出す。


「わたしは、陛下に生きてほしい。みんなや、わたしが陛下を護りたいと思う気持ちさえ無視するのですか!?」


 聖女は全身で訴えた。《聖王》の静謐な表情に、かすかな揺らぎが生じる。

 目元が歪み、堪えるように唇が引き結ばれる。


「なぜ、そなたはいつも――」


 うめくような、声。アウグストは頭を振った。


「やめてくれ。そなたは、私を……予を、おかしくさせる」


 かすれた声は、あまりにせつなかった。


「予は、王でなければならない。同胞を守り、すべてに等しく降る光であらねばならない――」


 自分に言い聞かせるような言葉。

 聖女は、十分立派な王だと叫ぶ。

 なぜそこまで自分を追い詰めようとするのか。


「――なのに、そなたのことが頭から離れない」


 静かな自嘲を唇に浮かべ、《聖王》は言った。

 青い目が真っ直ぐにこちらを見つめていた。


「戦場でそなたが矢に射られたとき、私がどんな思いでそれを見たかわかるか」


 その声に、聖女はぎゅっと胸が締め付けられるような痛みを覚えた。


「あんなものは二度と見たくない。――二度とそなたを傷つけさせはせぬ」


 頑ななまでに強い意思が滲む目は対の青い炎のように輝く。

 だが、アウグストは視線を逸らしてふっと冷笑した。


「これが私の本音か。大層なことを吐いておいて、結局は――」


 聖女はそれに答えられなかった。

 青い目が再び聖女を見つめ、唇は乾いた笑みを象った。


「わかるか。平等であるべき王が、ただ一人の女に心を支配されているのだ」


 聖女は立ち尽くした。

 アウグストの心にようやく触れ、その告白に言葉を失っていた。


「これ以上おかしくなる前に、王としての責務を果たさねばならぬ」


 静謐な微笑。

 そうして、アウグストの顔を王の仮面が覆う。

 その体を定めと重圧がよろう。


「――さらばだ、私の光」


《聖王》は短く告げると同時に身を翻した。

 ぞの頭上に、白く輝く魔法陣が浮かぶ。

 


「だめ……っ!!」


 聖女は叫び、駆け寄ろうとする。

 だがその足が突然力を失った。

 全身の筋肉が弛緩したかのようにその場に崩れ落ちる。


 顔だけを上げると、アウグストが振り向き、微笑している。

 手甲に覆われた右手が持ち上げられ、魔法を使ったことを示す光の残滓がまとわりついている。


 ――弱体化魔法。


 一時的に相手を弱らせる魔法だった。本来は敵に使うためのものだった。


 聖女は抗うも、立ち上がれなかった。

 震える手を伸ばして、なんとかアウグストを止めようとする。

 待ってと叫び懇願する。


(止めなくちゃ……絶対に止めなくちゃ!!)


 いまここで止めなければ、きっと二度と会えない。

《聖王》の背は、懇願をはねつける。

 王であるアウグストを止められるものはなかった。


 聖女は、女神リデルに祈った。


(リデル様、どうかお願いです! アウグストを止めて……っ!!)


 このまま行かせていいはずはない、何か方法があるはず――。

 孤独な王の背が光に包まれて消えようとする寸前、天啓が聖女の脳裏に弾けた。


 古き世にあった、聖女と王だけの誓いの儀式――唯一、王を拘束しうる力。


 消えようとする背に向かって、聖女は渾身の力で叫んだ。




「“光の守護者たる王よ、わたしはあなたに《光滴の杯》を要求する――!!”」




《聖王》アウグストは驚いたように振り向いた。

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