第24話 空虚
おまえ?
確かに土鬼はそういいました。
心が麻痺するような感覚が、スミアの体中を走りました。
スミアの脳裏に、泥にまみれ汚れた自分がちらつきました。
【キャーーーーー!】
スミアは土鬼の言葉で悲鳴をあげました。
自分でも気がつかないうちに、スミアは腰から短剣を抜き、すっかり油断している見張りの土鬼に切り付けました。
短剣の刃は、見事なまでの美しい焔を上げて、赤く輝きました。
見張りの土鬼は、背中に短剣を受けたとたん、手でスミアを払いのけました。
「スミア!」
遠くからアルヴェの声が響きました。
背中から黒い血を流しながら、土鬼はがっくりと膝をつき、唸り声を上げています。
スミアは正気に戻りました。
這いずって枯れ草を集め、巣穴に放り込み、油を注ぎました。
その間に、スミアの短剣を受けた土鬼は、痛みを憎しみに変え、槍にすがって立ち上がりました。
昇りはじめた朝日が、スミアの上に土鬼の黒々とした影を落としました。
油を注ぎながら振り返ったスミアの目に、土鬼が槍を突きおろそうとしている姿が映りました。逆光で真黒な影の中、血走った赤い目だけがぎらりと光っていました。
これほどの怒り・憎しみのこもった瞳を、スミアは見たことがありませんでした。
死を覚悟し、一瞬目をつぶりかけたスミアでしたが、土鬼は背中からアルヴェの矢を受けて、スミアの横にどっと倒れました。
反対の入り口からも悲鳴が上がり、シルヴァが向こうの見張りを射殺したことがわかりました。
スミアは震える手でランタンを持つと、巣穴に投げ込もうとしました。
しかし、そこには藁にまみれた土鬼が、すでに顔を出していました。
こちらを突破されると、勝ち目はありませんでした。スミアは短剣を握りなおすと、土鬼の頭めがけて切りつけました。
真黒な鮮血が飛び散りました。
動脈を見事に切ったのでしょう。スミアは土鬼の返り血を浴びて真黒になりました。
土鬼は穴の奥にどすんと落ちていったようです。下敷きになった仲間の土鬼の罵声が聞こえてきました。
スミアは再び枯れ草を押し込んで、ランタンを投げ入れました。
とたんに火の手が上がりました。
スミアは腰が立たず、這いずって後ずさりしました。
穴の中から、ギャーギャーという土鬼の叫び声が聞こえてきました。
【あ、熱い! 助けてくれ! 助けてくれ!】
スミアには、土鬼の言葉がわかりました。
地面の下で苦しみもだえる声が、大音響となって、入り口から、空気穴から、噴出しました。
断末魔のもがきで、大地は揺れてうなりました。
振動がスミアを震わせました。体に力が入りません。
呆然としているスミアの前を、軽やかに光戦の民が通り過ぎました。
アルヴェでした。
彼は、まるで風のように走り、いとも簡単に弓を引き、穴から出口を求めて這い出てくる土鬼たちを射殺しました。
遠目には、まるで踊るように見えるシルヴァが、実は身を翻すたびに土鬼の命を奪っていることも、まるで他所事に感じられました。
まるで絵を見入るようにして、スミアはその姿をただ見ていました。
心はまったく空虚でした。
これが夢見ていた復讐であり、敵討ちのはずでした。
しかし、スミアには何の喜びも感慨も浮かびませんでした。
十二年前、村は土鬼に襲われ、スミアと妹は、村から連れ去られるところでした。
祖父の投げた石が、土鬼の腕にあたり、土鬼はスミアだけを落として逃げました。
泣き叫ぶ妹の声、連れ去られる妹の姿が、スミアのこの世で初めて記憶に残る物事となりました。
土鬼が憎い……。
親もなく貧乏だけがある辛い生活でした。
土鬼さえいなければ、家族揃った幸せがあったのかもしれません。打ちのめされるたびに、生きるために、スミアは土鬼を憎み続けてきたのです。
土鬼が憎い……。
十二年間待っていたのは、美しく冷酷な光戦の民。復讐の刃を持つ不老不死の種族でした。
スミアは戦いをただ見ていました。
汚い者たちが、噴水のような黒い液体を撒き散らしながら、丸太のように転がっていきます。その血に染まることもなく、美しい者たちは軽やかに舞いました。
はらはらと涙がこぼれ落ちました。
光戦の民の華麗な戦いぶりが、涙にかすんで見えました。
美しい朝の陽光の中、殺戮の限りが尽くされて、スミアの心も死にました。
自分は長い間、いったい何を望んでいたのでしょう? 復讐とは、いったい何だったのでしょう?
燃え尽きた巣穴に散らばる屍の山を、自らの手で積み上げていくことでしょうか?
たとえ汚く、邪心しか持ちえない生き物だとしても、命は命としてありました。
彼らを憎いと思いながらも、彼らの死を喜べない自分がいました。
スミアの夢であり、希望だったものが、空しく消え去っていったあと、スミアの心も空虚になりました。
スミアの中に、母の、そして父の悲鳴が響きました。
両親の仇を討っているというのに、なぜ虚しさに涙が出るというのでしょう。
「あたし……もう、わからないよ……」
すべての生気が抜け落ちてしまいました。
スミアが呆然と座り込んでいる時でした。
がさがさと音がしました。
スミアは我に返りました。戦いはまだ終わってはいなかったのです。
スミアの近くにあった空気穴がごそごそと揺れ、黒く汚れた手が現れました。出口を失った土鬼が、空気穴を押し広げて外に出ようとしていたのです。
土鬼どもは、十二年前の教訓を生かして、空気穴を崩れやすい構造にしておいたのでしょう。穴は、あっという間に出入り口と同じ大きさに押し広げられました。
穴からおぞましい目をした土鬼が飛び出してくるのを、スミアは何もできずに待っていました。逃げることも、戦うことも、スミアには思いつきませんでした。
振り上げられる剣に、切り殺されることも、スミアには他人事のように感じられました。
何も考えられないまま、スミアは報復を待っていました。
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