第5話 死した住処(すみか)
二頭の馬は来た道を引き返し、白く輝ける山々の方へ向かって走っていました。
スミアは、アルヴェの腕の中で目をつぶっていました。生まれて初めて馬に乗ったのです。
地面を蹴る馬の反動が、スミアをも跳ね上げて何度も転げ落ちそうになりました。そのたびに、スミアは「ひやっ」と短い悲鳴をあげ、アルヴェにしがみつきました。
馬から上がる熱気のせいか、スミアはまったく寒くはありませんでした。それよりも、馬に慣れてくると、自分が着ている毛皮の臭さが気になりだしました。かすかに汗ばんだせいで、土鬼のような臭いがします。
それに比べて、光戦の民は少しも汗をかかず、しかも体臭など無いのです。それどころか、銀髪からかすかな花の香りすらしました。
恐る恐る目を開き、スミアはアルヴェを見上げました。
光戦の民は着ている衣服も美しいのでした。細やかな刺繍を施したしなやかな布を、確かな腕で仕立て上げた極上の衣装。さりげなく並んだ小さなボタンは、緑鮮やかな宝玉で出来ていました。さらに、見事な装飾を施した胸当てをつけ、その上に緑色の軽やかなマントを羽織っています。風になびくマントは、襟元で美しいブローチによって止められていました。
衣装は光戦の民の美しさをさらに引き立てました。
アルヴェの顔は透き通るような白い肌で、高山に降る雪のように滑らかでした。そして形のよい唇が、ほのかに色を添えていました。前を見つめる瞳は、狩をする獣のように光を調整して細く見えましたが、夕の闇のように薄く、しかも深く、宝石のようでした。
スミアは、急に恥ずかしくなりました。
あまりにも自分は醜すぎます。
強い日差しに焼かれ、荒れた大地に汚された肌は、洗ったところで白くはならず、ざらざらとしていました。唇に色はなく、ささくれだった皮膚に覆われていました。目も痩せこけた棒のような体に不釣合いに大きくてぎょろりとしています。
今まで、こんな惨めな気持ちになったことはありません。
なぜなら、村の誰もが似たり寄ったりで、スミアは自分が醜いことに気が付いていなかったのです。
やがて馬は、あたりを見渡せるなだらかな丘の上で止まりました。
アルヴェはひらりと馬を下りると、手を差し出して、スミアを馬から下ろしました。
その手も滑らかで、スミアは手袋をしていてもアカギレがわかってしまう自分の手を、思わず引っ込めてしまいました。
後ろ手にしてもじもじしている少女の肩に、アルヴェは手を添えました。
先ほどまで馬を恐れてしがみついていたくせに、スミアは緊張して跳ね上がった上、みるみるうちに耳まで赤くなってしまいました。
アルヴェは苦笑しました。野生児のような少女の中に、女らしい恥じらいを見てとったからです。
そしてスミアの体をくるりと半回転させました。
そこには荒れ果てた土地がありました。
やや赤茶けた土と白っぽい岩、風が砕いた灰色の砂だけで、緑はほとんどありません。ただ、地面の所々にぼこぼこと穴がいくつかありました。
先に馬を下りたシルヴァが、穴に向かって走っていくのが見えました。
岩や砂に足をすくわれることもない姿は、この大地にまったくそぐわず、別世界の存在のようでした。
青みがかった緑のマントがはためいて、一瞬乾いた土地に潤いがもたらされたかのように見えました。
スミアはなぜか切なくなりました。
光戦の民が住まう土地は、豊かになる。そんな話をどこかで聞いたことがありました。
そんな都合のいいことがあるはずはない。夢物語だよと、祖母があきれて言っていました。
スミアの世界は、豊かさとはかけ離れていました。
そして光戦の民の美しさともかけ離れていました。
穴は無数にありました。
大概は小さな空気穴で、人が出入りできそうな大きさの穴が四・五個あり、かなりの広い範囲に渡っていました。
シルヴァは、槍を穴のひとつに差し込んで、カツカツと探っていました。風が吹き、砂が舞い踊りました。
「我々が十二年前、一網打尽にした土鬼の巣だ。やはり、ここの場所は捨てられたらしい」
シルヴァの声も風に舞いました。
かつて、ここに三百匹ほどの土鬼が住みついていました。今、ここに土鬼といえど、生き物のけはいはありませんでした。
スミアは、穴の前でしゃがみこんでいました。
穴に風が通って、中からゴォゥと虚しい響きの音が聞こえました。
高々と積まれた土鬼の焼け焦げた屍も、十二年の月日が砂と化してしまったのです。痕跡があるのは、アルヴェの足元の岩に残った黒いシミだけでした。
「生き残った奴らはどこへいったのだろう? スミア、覚えているかい?」
スミアには、アルヴェの質問には答えられませんでした。
なぜなら十二年前、スミアはまだ幼すぎたのです。
人間は短命です。おそらくスミアはその時、二歳か三歳というところでしょう。
その事実に気が付いて、シルヴァが近づきながら言いました。
「何もかも妄想だった……。などということはないだろうな?」
スミアは激しく頭を振って言いました。
「違う、違う! 確かにあたしは小さかった。記憶だって確かじゃない! でも、覚えているんだ! 土鬼どもの叫び声。妹がさらわれていくところ……。妹は真黒な土鬼に小脇に抱えられて、そして……」
激しく動悸がしました。
幼い日に植え付けられた恐ろしい記憶。それは断片的でしたが、スミアの心に暗い影を落としていました。
復讐こそが、スミアの願い。
いえ、復讐なくしてスミアは生きていけませんでした。
スミアは自分の喉を押えて、やっと一言付け加えました。
「あたし、あいつらを許さない!」
その夜は、土鬼の巣穴が見える小高い丘の上での野営となりました。
捨てられた土鬼の巣には、まだ何らかの手がかりがあるかも知れません。スミアは天幕で寝てしまいましたが、アルヴェとシルヴァは、一晩中見張りを続けていました。
天幕にともっていた灯りが消え、あたりを照らすのは星明りだけでしたが、光戦の民は夜目も利きました。
「兄者、あの子は少しおかしいとは思わないか?」
槍でカツカツと地面を打ちながら、シルヴァが言いました。
このあたりに、狩るべき土鬼が本当にいるのでしょうか? スミアの村は、本当に襲われたのでしょうか?
シルヴァの瞳の奥には、確かに少女に対する疑惑がうごめいていました。
「だいたい、人間は信頼が置けない。兄者は忘れたわけではあるまい。なぜ、我らの母が土鬼の手に落ちたのか? 人間どもの裏切りさえなければ……」
「スミアは、あの時の人間とは違う」
「だが、人間を同志として扱うなんて……。あの子は我々を裏切るだろうよ」
狩の邪魔になりそうな存在に、シルヴァは苛々しているようでした。
アルヴェは、弟の横で腰をおろして腕を組み、土鬼の巣を見下ろしていました。
「私だって、スミアの話をすべて信じているわけではないよ。それに……我々が十二年前、この巣穴にいた土鬼を討ちもらしたともね。我々の武は、天空の神が与えたもう力。神の手である我々の戦いに、わずかな狂いもあろうはずがない」
完璧に死を与えられた地が眼下に広がっています。厳しい夕闇の目で、アルヴェは地平を見つめ、やがてその目を緩ませました。
「ただ、あの子が嘘をついているとは思えない」
それはシルヴァも同じ気持ちでした。
十二年前、この丘の上で二人は燃え盛る火を見ていました。
それは、土鬼どもを焼く炎でした。
その時とまったく変わらない姿、変わらない心で、アルヴェとシルヴァは、土鬼の死した住処を夕闇の瞳で見つめていました。
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