真夜中の虹
二月ほづみ
序
六一八年 十一月十日。
風にあおられて窓を叩く雨音が、静かな病室に不規則に響く。外は嵐だった。
時計の針はちょうど深夜十二時を回ったところ。夜明けを越えて明日いっぱいは雨が続く見込みだと、確か、夕食時にラジオで聞いた気がする。
父の計らいで用意してもらった、見晴らしの良い一人部屋からは、晴れていればアヴァロン城が見えるはずだ。退院までに一度城を眺めてみたいものだと思っていたけれど、この様子では叶わないかもしれない。それはいかにも残念だなと、重い腹をさすりながら、リゼット・パーカーは考えていた。
体調はあまり良くない。そもそも、健康は自分の数少ない取り柄だと思っていたのに、妊娠してからこちら、体験したことの無い不調に悩まされっぱなしだった。人をひとり産むというのはまことに大変なことである。あの身体の弱かったアーシュラが、文句ひとつ言わずこれを乗り越えたのだから、主人はやはり偉大な人だったのだなと、奇妙な感慨も湧いた。
けれど、たぶん、自分はこの出産では死ねない。
あの日のアーシュラのように、今夜、ここで死ねたら、きっと、これ以上無いほどに幸福な一生だったといえるだろうに。これから先、罪人として歩まねばならない長い人生の時間を考えたら、今夜直面している出産よりもずっと、途方も無く不安だった。情けないけれど、逃げ出してしまいたくなるくらいだ。
けれど、全ては、自ら決めたこと。
今夜、人知れず母となる少女は、弱い己を奮い立たせるように、大きく吸い込んだ息を吐いた。
トランクの上に立てた、二つの人形を見つめる。
叶えてはいけない夢を望み、叶えてしまった。
これは、忠誠と、親愛と、罪と、欲望の全部をかけて、自分が選んだ結果。
彼女が、彼らに残したあの姫の未来のために、自分が唯一出来ること……そしておそらく、唯一自分にしか出来ないこと。
だから、これでいい。
幸福であることと、私自身であることは違う。これでいいのだ。
雨音に隠れひとり呟いた母の腹を、今にも生まれ落ちようとしている、胎児が蹴った。息子は、母がこれからしようとしていることを、非難しているのだろうか。リゼットは少し笑った。そうか、今はひとりではないのだった。
「……良い名を頂けるよう、お父様にお願いをしておきましょうね」
ああ、あの方を、この腹の子の父と呼べる喜びを、一体何と言い表せばいいのだろう。
拭えない罪悪感、消し去れなかった恋心。寂しくて心臓に穴が空いたみたいだけれど、この十ヶ月の幸せを思えば、今夜の辛さなんてきっと、甘い夢の続きのようなものだろう。これ以上、望むものはない。
「さあ……今のうちに、手紙を書いておかないと」
小さな荷物から、新しいレターセットを取り出す。ここに来る道すがら買ったものだ。
固くなった大きな腹が小刻みに痙攣する。窓の外はやはり雨。何しろはじめての経験であるから、出産にどのくらいの時がかかるのかは分からない。
けれど――別れの時は近いのだろう。ここまで元気に育つ子が宿ってくれたことに感謝したいと思った。かならず、立派に産んでみせよう。
この子はきっと、エリンのような強く美しい剣に育つに違いない。
かの姫の歩む人生は、きっと数多くの困難が待ち受けている。彼女と……願わくば、孤独なあの方を。よく守り、支えて欲しい。心から願いたい。
この気持ちを全部、あなたに托そう。
病室に備え付けられた素っ気ないペンを手にとり、フカフカとした新しい便せんに、リゼットは少し考え込んでから、微かに震える手で、愛しい人の名を記した。
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