第28話
星野わかばの部屋には誰の姿も見えなかった。その現実を目の当たりにした指針刃はちくしょう、と心の中で苛立ちの言葉を吐いた。もうすでにここにいないということも充分あり得ると思っていたが、こうも嫌な現実を突きつけられてしまうのはいい気分はではない――何事においても。
もしかしたら奥の部屋にいるのではないか――そう思って靴を脱いで部屋に上がり、奥の襖を開けてみる。しかし、その部屋にはまだ引っ越してきてからまだ開けていないダンボールが積まれているだけだった。フローリングにも薄っすらと埃がたまっており、日常的にここを使っている様子はまるで見られない。やはりそううまくいかないか――と思いながら襖を閉めて居間に戻り、念のために風呂場やトイレなどもチェックしてみるが当然のように誰に姿も見えなかった。
誰もいない居間に視線を巡らせる。
ベッドの横には真新しいシステムデスクがある。その上には大学で使っていると思われる教科書十数冊とタブレットPC以外、特になにかあるわけではなかった。
ほかになにか手がかりになるようなものはあるだろうか――と思いながら目線を動かしていると、そこに財布とスマートフォンが置かれていることに気づく。
――これは。
財布もスマートフォンも持っていない――それが意味するのはとてもわかりやすい。スマートフォンはともかくとして、財布を持っていなければ遠くに行くことができない――あるいは遠くに行くつもりはないということだ。
彼女は衝動的にここから出て行った。もしくは何者かに無理矢理連れていかれたか――
しかし――
ここから歩いて行ける距離に大学があるので、彼女が車を持っているとは思えない。それにこのアパートには駐車場がない。自分の車を所有しているのなら、駐車所があるところに下宿するはずだ。
部屋の様子からして苦しい生活をしていたわけではないようだが、普段の生活にはあまり必要にならない車を所有するほど裕福でもないだろう。実家を離れて下宿している学生の身分では車の維持費は結構な負担である。
東京近郊でも電車がほとんど通っていない郊外では必要かもしれないが、ここは一本で都心まで行くことができる沿線都市だ。車がなくとも日常生活に困ることはほぼない。必要になったときにレンタルしたほうがなにかと効率がいいし、なにより金もかからない。そういったことを総合すればわかばが車を持っている蓋然性はとても低いだろう。徒歩以上の移動手段があるとすれば自転車くらいだ。
だが、歩いて行ける場所に大学があるということを考えると、自転車も持っていない確率もかなり高いと思われる。そもそもアパートの駐輪場に彼女のものらしい自転車が停まっているのを見たことがないので、やはり自転車も持っていないと考えるのが妥当だろう。
そうだとするなら、かなり前にここを出て行ったのだとしても徒歩なら移動できる距離はたかが知れている。どこにいったのかの手がかりさえつかめれば、彼女を見つけるのにそれほど時間はかからないだろう。
申し訳ないと思いつつも刃は部屋を探索してみる。しかし、彼女がどこに行ったのかの手がかりになりそうなものも、『邪神の本』らしき分厚い事典のようなものも見つからない。そんなことをしていると、ふと刃はこの部屋がどこかおかしいことに気づいた。
この部屋にはなにか異様なモノの気配がわずかながらに残っている。言葉で表現するのが難しいが、誰にでもこれは嫌なモノだと断じることができるなにか。それがここにある。間違いなく『邪神の本』のモノだ。だがそれはやけに弱々しい。これはどういうことだろう。この部屋に『邪神の本』の実物があったのならもっと濃く強く残っているはずだ。こんなに微弱なものになるわけがない。
となると、ここには『邪神の本』はないし、過去にあったこともない。そう判断して問題はないだろう。ここにあった事実がない以上、『邪神の本』を所有しているのは彼女ではない別の誰かということになる。
それにもかかわらず『邪神の本』の力の残滓が感じられる理由は一つしかない。彼女は『邪神の本』によってなんらかの攻撃を受けていたということだ。ここに残っている『なにか』の正体はその攻撃の残滓だろう。それがどういうものなのか不明だが、ここに残っているモノがとても弱いことを考慮すれば、操られて刃のことを襲ってきた若者たちのように強力な力だったというわけではなさそうだ。
この微弱な力が散逸せず残っているということは、わかばはやはりここを出ていってからそれほど時間が経っているわけではないということでもある。
玄関のほうに目を向ける。そこには普段使っているものと思われる履き古したスニーカーが残っていた。遠くにいくつもりなら履きなれているものを使うだろう。それを使っていないということ、そして部屋が荒らされた様子がまったくないことも併せて考えれば、彼女は『邪神の本』によって攫われたわけではなく、なにか別の理由があって衝動的にここを飛び出していった――そう考えるべきだ。
スマートフォンを取り出し、通話アプリを起動して加奈子に連絡を取ろうとしたときに机の上にイヤホンがあることに気づいた。
通話をしたままにしておくのならイヤホンを使ったほうがいいか。
数瞬だけ考えて、刃はそれを借りていくことにした。こういうことはしたくないし、してもいいとも思っていないが、『邪神の本』によってなにか起こしてしまう可能性がある以上、そんなことに躊躇していても仕方がない。これが終わったら正直に言って弁償をしよう。それをやれば許されるとも思っていないが。
イヤホンをスマートフォンに差し込み、耳に片方だけ耳に入れて通話アプリを起動して先ほど登録した加奈子のIDにかける。加奈子はワンコール目が終わる前に出た。もしかしたら彼女が出ないかもしれないと思ったが、すぐに出てくれたことに少しだけ安心する。
『どうしましたか?』
聞こえてくるのはいつも通りの冷徹な声。しかし、それを聞いて刃は少しだけ安心できた。
「あまり時間がないから結論から言うと、もう星野さんは部屋にはいない」
『…………』
「でも、あまり遠くには行ってないと思う。スマートフォンも財布も部屋に置きっぱなしで鍵もかかってなかったから。それに、部屋には『邪神の本』の力の残滓がある。たぶん彼女にかけられていたモノだと思う。
「それをかけられている彼女がいなくなっても部屋にそれが残っていたということは、あの娘が出て行ってからそれほど時間は経っていないことでもある。それに力の弱さから考えて、彼女の近くには『邪神の本』はなかったと見ていい」
『そうですか……。ですが、部屋に星野さんがどこに行ったのか手がかりがあったのですか?』
「残念ながらそれはなかった。恐らく、部屋の様子からして彼女は衝動的にここを出て行ったんじゃないかな。だから証拠らしいものなんかあるわけがない」
『指針さんになにか手があるということですか?』
「うん。なにかあったら呼んで」
『わかっています』
加奈子のその言葉を聞いて刃は通話を切れないようにしてからポケットにしまう。
刃はわかばの部屋を歩いていって靴を履いて外に出た。
さて、ここからが本番だ。
いかに彼女を早く見つけられるかがカギになる。
もともとなにか事情があって不安定だったらしい彼女が『邪神の本』から攻撃を受けてさらに不安定になっているということを鑑みると、放っておけば彼女がなんらかの危害を誰かに加えてしまうというのは充分あり得る。それが起こらないと考えるのは楽観的すぎるだろう。
緊急時に『最悪』を一切考えないのはポジティブでもなんでもない。ただの馬鹿だ。わかばがなにかしてしまうかもしれないということだけは頭に入れて行動をする必要がある。無論、彼女がなにか起こしてしまう前に確保できたのならそれに越したことはないが。
彼女はそれほど遠くには行ってない。ここから数キロ圏内のどこかにいるはずだ。
だが、範囲がそれほど広くないとしても、一人で数キロの範囲をなんのアテもなく探すのは少し無理がある。刃なら、その気になれば車と同じような速度で街中を走り回ることもできるが、それにだって限界はあるし、できないことできない。なんのアテなく数キロの範囲を走り回って探すというのは時間も体力も無駄に浪費するだけの悪手である。
まずはどうにかしてアテをつけなければならない。
運のいいことにわかばは『邪神の本』によってなんらかの攻撃を受けている。あの異質な気配ならば間違えてしまうこともない。それらを追って、まずは絶対数を減らす。
指針刃は身体能力に優れている。
それは筋力などに限ったことではない。いくつかのものはそのままだと通常生活にも支障をきたすため無意識的にその力をかなり制限している。
無意識的に強く制限しているのは感覚能力だ。
刃の持つ五感はそのすべてが通常よりも遥かに強力だ。触れられないものを探知し、聞こえない音を聞き、嗅ぎ取れない微弱な匂いを感じ取ることができる。
しかし、鋭敏すぎる感覚は多くの問題も引き起こしてしまう。外部から取り入れる情報が多すぎれば、脳の処理が追い付かなくなる。
恐らく、そういった脳の処理能力も高いのだろうが、あまりにも情報が多くなってしまった現代ではそれをもっても処理し切れなくなってしまったらしい。それぐらいいまの社会では情報が溢れている。通常、無意識的にそうしているのは生体としての自己保存機能なのだろう。
その無意識的なブロックを解除し、本来の感覚能力を発揮すれば数キロ離れていたとしても異質な気配を持つものであれば探知することが可能だ。
当然、これは身体的にも精神的にもかなりの負荷がかかる。一度にできる最大は二分というところだ。それに多用することもできない。二分のリミットまで行うとしたら一日三回が限度だろう。それ以上やったのなら命の保証はできないとも。
最大二分、一日三回というのは実際にやってみて弾き出したものではない。これについて聞いた特殊警備部門の名物ドクターが出した推論だが、あのドクターの能力を考えれば信頼できる数値のはずだ。
刃は一度深呼吸して、無意識がかけているブロックを一つ一つ解除していく。
解除していくたびに自分の感覚が巨大になっていき、それと同時に圧倒的な量の情報がすべての感覚器官に向かって流れ込んでくる。
それはヒトという小さな生物を簡単に押し潰す壮絶な暴力だった。圧倒的な量の情報がガンマ線のような熱さと激しさを持って指針刃という個を焼き尽くしていく。広がった感覚が巨大になり過ぎていま自分がどのようになっているのかすらもわからなくなってしまう。自らにとめどなく入り込んでくる大量すぎる情報は混沌とした無秩序であり、それらがもとはどういうものだったのかの判別もまったく不可能だ。
情報の海の圧力にに自身の意識を飲み込まれそうになりながら、入り込んでくる混沌とした無秩序の中にある異物を探し当てる。ない、ない、ない。もっと遠く。もっと深く。それは砂漠の中にあるわずかな砂金を探し出すのにも等しい。だが、異物は必ずあるはずだ。どこだ。どこにある。もっと広げろ――
すると、異物の気配が感じられた。どういうことだ。複数――無数に街全体に点在しているらしい。百からは数えるのも面倒になった。それでも異物の気配の数は増えていく。なんだこれは。異物の数が多すぎる――
これは、『邪神の本』が自由に操れる人間か。それに気づいて刃は悪態をついた。くそ。これではどれがわかばなのか特定ができない。これほどの数を手駒にできるのか。それを実感して焦りが生まれてくる。どうする。どうすれば――
これを使って『邪神の本』の居場所を特定してしまうか――いや、それはさらに難しい。操っている奴はともかく、『邪神の本』自身と奴に協力している奴はなんらかの方法で守っているに違いない。最初に出合わせたときに使っていた隠蔽の力で防ぐことが可能ということもあるはずだ。狡猾な『邪神の本』がそういった対策をしていないとはどうしても思えなかった。とてつもない負担がかかる以上、なんらかのアテをつけておかなければ駄目だ。
そこで急速に広がった感覚と入り込んでくる大量の情報が消失して通常の感覚に戻った。どうやら無理矢理解除していた無意識のブロックを強制的に終了させられたらしい。
刃の身体は熱病にかかったのではないかと思うほど熱に帯びていた。全身から異常な発汗をしている。着衣したまま水の中に入ったのではないかと思うほど服も身体も濡れていた。身体には全速力で一時間以上走ったときよりも大きな疲労がのしかかっている。自分が立っている場所だけ重力が大きくなっているのではないかと思うほど身体が重い。これをあと二回もできるのだろうかと思うが、自分が思っている以上にこの身体は頑丈なようなのでできるのだろう――たぶん。
とてつもなく体力を消費したが、身体は問題なく動く。まだ大丈夫だ。それを確認してから一気に走り出す。
……どうする。
ただ感覚を延長しただけではだめだ。『邪神の本』の力が残っている人間が街のいたるところにいるせいで数を絞ることができない。くそ。なにかないのか。あともう一つ決め手になってくれるなにかがあれば――
『指針さん』
耳に入れたイヤホンから加奈子の声が聞こえてくる。
「なに?」
『星野さんのことを言おうと思いまして……どうしたんですか? 息が上がっているようですけど、大丈夫ですか?』
「大丈夫。気にしないでくれ」
『わかりました。それでは疲れているようなので手短に。まだ少しなので確かなものとは言えませんがそれでも多少収穫はありました。彼女地元ではかなり有名だったようです』
「……有名って?」
『そうですね。問題児――なのでしょうか。よくわかりませんが彼女、小学五年生のころに問題行動を行っていたようです』
「問題?」
刃は再び訊き返した。
『ええ。彼女が通っていた小学校で飼育していた動物が一匹ずつ惨殺され、その死骸を教室の教壇など目立つ場所に置かれるというような事件が起こっていたのですが、それを引き起こしていたのが彼女だったようです』
加奈子の口調は淡々とした事務的なものだった。
「それは……」
小動物の惨殺は結構な割合で対象が人間に移行する。それも自分より弱い子供であることが多い。
『ですが、彼女は相手が人間になることはなかったようです。相手が人間に移行するまえに動物の惨殺が見つかってしまい、彼女はそれを続けることができなくなった。以降、彼女が暮らしていた町ではそういった事件は起こっていません。もっと調べてみれば出てくる可能性はあるかもしれませんが』
「でも、子供が遊び半分で動物を殺すなんてのは、そりゃ異常といえば異常ではあるけど――そこまで珍しいものではないのでは?」
『ええ。何人かその頃の関係者に当たってみたのですが――ちょっと妙なんです』
「妙、とは?」
『私が先ほどネット上で接触した当時の関係者がみな、彼女のことを喋らなかったんですよ。彼女がそれをやっていたことは全員口にしていたのに、彼女が何故そういうことをやっていたのかについては誰も語らなかった。彼女に対する罵倒の言葉すら誰も口にしなかったんです』
「…………」
それは確かに妙だ。
大抵こういった事件が起これば様々な悪口を言われる。それに尾ひれがついて根も葉もない中傷が生まれたりもする。それがなかったというのは――
『小学生の頃の彼女――いや、なにも問題がなかったらいまもそうなのでしょうが――かなり成績優秀な娘だったようです。現に彼女は中学から県内でも有数の難関進学校である全寮制の女子校に入学して、六年間、成績も上位を維持して、いまの大学も推薦で入学できたようですから。それに近所の評判もかなりよかった。小学校の飼育動物を惨殺したのは誰かの嘘なのではないかと思えてくるくらいです』
「品行方正で優秀な子がそんなことをするとは思えない、と?」
『ええ。そういうのも確かにあったのでしょう。
ですが、私が接触した人たちはそうではないようです。彼らから感じたのはあの娘が自分たちの理解を超えたものだというものでした。恐怖と困惑です。
『事件が発覚したとき、星野さんがどのようなことを発し、そしてまわりの人間がどのように接したのかはまだわかりません。そのとき彼女が発したことが原因で、誰も彼女について語らなくなってしまったのかもしれない。
『ですが、表立って中傷することができないくらい彼女は普通の人々にとって異質な存在だったではないかと私は思っています。あまりにも異質だったのなら、表立って中傷しなくなっても不思議ではありません。そのあたりが通常起こる動物惨殺事件と違う部分であり、私たちが感じた彼女の不可解さの原点ということもあるでしょうが……もっと調べてみないとわかりませんね』
「いや。ありがとう。藤咲さんの話を聞いて少し落ち着いた。それならいけるかもしれない」
わかばに『邪神の本』の力以外にどこか異質なものがあるのなら、感覚延長でそれを感じ取れるかもしれない。
『わかりました。それではまたなにかあればなんなりと話してください。待機していますので。お気をつけて』
通話は繋げたままでポケットにしまう。
彼女の素性については、加奈子に任せておけばいいだろう。もしくは見つけたときに訊いてみてもいい。
いまなによりも大事なのは危うい状態にある彼女を一刻も早く確保することだ。
『邪神の本』の力が感じられる者の中から、別の異質なものを持っている者を探せばいい。一度『邪神の本』の力が感じられる者を探知しているから、それほど難しくはないはずだ。気をつけるべきは――
次で見つけることだ。
一応のリミット予測はあと二回。だが、あと二回やったら体力を使い果たして動けなくなってしまうこともあるかもしれない。慎重にいくのなら、最後の一回はもしものときのために残しておくべきだ。
これで決めろ。
取り返しのつかない事態が起こる前に。
取り返しのつかない事態を起こしてしまう前に。
わかばはこちらから逃げているわけではないのだ。
移動手段も徒歩以外にはない。
一人ぐらい困ってる奴を助けてみたらどうなんだ指針刃。
それがお前の持った最初の理想でもあり、いまも持っていたい理想なのだろう? 最期の日まで貫き通したいものなのだろう?
その通りだ。
そんな力を持っていながら誰一人として救えないなんて笑い話にもならない。
最初に一人目を救ってみせろ。
刃は再び自分の感覚のブロックを一つ一つ解除していく――
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