第2話
いつも通り自堕落な生活を送っているところに、滅多に鳴ることのないインターフォンが突如として鳴り響く。そこに住んでいる
はて、なんだろう。通販もデリバリーも頼んでいないはずだが――と思いながら身体を起こして立ち上がる。宗教勧誘やら悪質な営業の類なら断ればいいか。
それなりの期間を一人で暮らしているから、その程度の心得はある。まあ、そんなの今まで一度も来たことないのだが。そういえば最後にインターフォンが鳴ったのはいつだったっけ――そんなことを思いながら扉まで進んでいく。
ああ、そうだ。インターフォンが最後に鳴ったのは三ヶ月前だ。配達業者とデリバリーサービス以外にここを訪ねてくる奴は一人しかいない。
あいつだ。
そして奴が来るということは、なにかしらの面倒ごとを携えてやってくるのがいつもの決まりである。
また奴が持ってくる『仕事』をしなきゃならないのか――そんなことを思うと、とてつもなく面倒臭い気持ちが強くなって、このまま無視してしまおうかとも思う。
休みもこれで終わりか。とは言っても、刃の過ごす一年の大半は休みなのだが。
しかし、そういうわけにもいかない。あいつや、あいつの使いが持ってくる面倒ごとを片づけるのがいまの仕事であり、刃が所属している『組織』との契約でもある。自分の仕事がなければ、それは平和であるということでもあるのだが。
「はいはい。なに? またなにかあったの?」
そう言って刃が扉を開くと――
「なにかってなんですか? 誰かと間違えてません?」
聞き覚えのない女の子の声が聞こえてきて、刃は思わずどきりとする。
扉を開いた先にいたのは、まだどこか幼さの残る女の子だった。当然、知り合いではない。たぶん。もしかしたら『仕事』をやっているときに知り合った可能性もなくはないが。地味で垢抜けない印象だが決して不細工ではない。というか普通に可愛い子だ。大人とは言えないが、子供とも言いにくい年頃の女性である。
「え? 誰?」
扉を開けた先に年頃の女性がいるという、いままでの人生で一度も体験したことのない出来事に遭遇してそんな言葉を発してしまう。
「今日、隣に越してきたんですけど――挨拶をしようと思って。もしかして迷惑でしたか?」
おずおずとした様子で女の子はそう言った。
「隣――ああ。そうか」
この時期に引っ越してきた――その言葉で見知らぬ女子が自分の家のインターフォンを鳴らしたことに合点がいった。
今日は三月の第三週。そしてこのアパートから十分ほど歩いた先には大学のキャンパスがある。
「もしかして新入生?」
「はい」
女の子はそう言って頷いた。
そうか。もう大学の新入生が越してくる時期か。カレンダーを見て刃はそう思った。ほぼ毎日が日曜日だからすっかり忘れていたが。
というか、刃がこのアパートに住むようになって五年になるが、隣に越してきて挨拶をしにきてくれたことなど一度もない。本当にあるんだ、そういうイベント。フィクションにしかないと思ってた。
「わたし、星野わかばといいます。よろしくお願いします」
隣に越してきた女の子――わかばはそう言って礼儀正しくお辞儀をした。なんだかその口調が妙に芝居がかっているような気がするが――まあ、気のせいだろう。見知らぬ隣人に挨拶するということで緊張しているからそのように聞こえるだけだ。たぶん。
「僕は指針刃。よろしく」
刃も自己紹介をしてそう返す。
「もしかして、ここに住んでるってことは大学の先輩ですか?」
「あ――」
わかばの質問に対して、刃は思わず口ごもってしまった。いまの自分の身分を答えるべきだろうか。隣に越してきたばかりの年下の女の子に嘘をついたって仕方がないのだが、あまり堂々としているのもどうかとも思う。
少しだけ悩んで、刃は正直に答えることにした。嘘をついて余計な面倒が増えても困る。
それに嘘はあまり好きじゃない。
信条というものではなけれど。
「いや。違うんだ。僕はただの無職。家賃が安いし、大家からも特に文句も言われてないからここに住んでるだけだよ」
厳密には無職ではないけれど、まあそれを言う必要性はない。
というか、隣に越してきたばかりの女の子に、刃の『仕事』についていきなり説明されたところで反応に困るだけだろう。嘘をついて面倒を増やすのは避けたいが、言わなくてもいいことを言って余計な面倒を増やすのはもっと面倒だ。
余計な面倒は増やさない――それが刃の持つ数少ない信条である。
「ああ――えっと、ごめんなさい?」
首を傾げられて謝られた。なんだその反応は。疑問形で謝られましても――
「別にいいよ。褒められたことでないのは確かだし。なにか困ったことがあったら気軽に訊ねてよ。この通り暇人だから」
これも堂々と言うようなことではないが、女の子に頼られて悪い気にはならないのが男という生き物である。決して下心があるわけではない。断じて。
「わかりました。なにか困ったことがあったら相談させてもらいます」
そう言ってわかばはまた綺麗なお辞儀をした。やっぱりなんだか妙に芝居がかっている。いまの若い女の子というのはこういうものなのだろうか。
今年二十四歳の刃とそれほど年齢が離れているわけではないが――よくわからん。悲しいことに刃のいままでの人生で女の子と縁などろくになかったのだ。
「じゃあ、まだ荷物を片づけないといけないので、このへんで失礼させてもらいます」
そう言ってお辞儀をして、わかばは去っていった。やっぱりそれはどこか芝居がかっているように感じる。何故だろう。
なんでそんな風に感じるのかよくわからないけれど――まあ、可愛い女の子が隣に越してきて、挨拶をしてくるというイベントに遭遇できたのだからいいか。いまの時代では珍しいことだと思うし。
わかばの姿が見えなくなったのを確認してから、扉を閉めようか――と思うドアを引くと、途中で鈍い音がして、扉になにかが引っかかった。どうやら扉に足を差し込まれたらしい。
「おいおい。隣に越してきた女の子と仲よく雑談とは、きみも意外にすみに置けないところがあるじゃないか」
そんな声が聞こえて、視線を上げると、見慣れた顔がそこにはあった。自分と近い年齢の男。ラフな格好しているが、そこからは育ちのよさがありありと見て取れる。事実、この男はかなり育ちがいい。
「よ、久しぶり。三ヶ月ぶりくらいかな?」
その姿はとても爽やかだ。
「ああ、そうだな。で、なんの用?」
「おいおい。決まってるじゃないか。いつもの通りきみに仕事の話だよ」
見慣れた男――水谷竜太は爽やかな笑みを見せてそう言った。
やれやれ、本当にこれで休みは終わりらしい。
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